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子どもを認めることが親の一番大切な仕事なんだろう。

先日「ゆめのはいたつにん」という本を読みました。

良い本でした。

カンボジアに映画を届けることで「夢を見る力」を子どもたちに持って貰う為のNPO活動をしている人のお話。

その活動内容の素晴らしさ等々は、興味が沸いたに方は是非本を読んでいただきたいとして。。

この本の作者であり、「ゆめのはいたつにん」である教来石小織さん。

この人自分に恐ろしく似ている。
行動パターンや思考の感じ。

面と向かっては言葉が上手く出てこないが、文章ならするするかけてしまい長文になりがちであるところとか、人前でスピーチしようとすると頭が真っ白になって何も話せなくなるところとか、声が小さいところとか…
そして何より、勢いでばーっと何かやってしまうところとか。


去年の年末にやったこれなんてまさにそれ。

私が「やりたいやりたーい」って騒いで、最初は一人で勝手に行動していたけど「それいいね」って周りの人が乗ってきて。
あとはみんなでやれることやりながら、最後まで走り抜けちゃったそんな一つの話。教来石さんのやってることはこれの超大規模版で国から飛び出す壮大なことをやっている。

教来石さんの行動パターン、思考。
あまりに自分とそっくりで頷きまくってしまった。が、ひとつだけ私と真逆の要素がある。

『親にしっかり愛された記憶がある』こと。
作中で書かれていた幼少期の記憶。
人生は幸せと不幸せが半々でやってくるという話を聞いて「私はこんなに今幸せだから大人になったら不幸になるかもしれない」と思ったそうだ。
私の子ども時代には確実になかった思いだ。

発達特性としてネガティブな記憶ほど残りやすい傾向はあるそうなので全てがそうだったかはわからない。

けど、孫に接する自分の両親の行動や言動を見るにそこまで記憶と現実の乖離は無いかなと思ってる。
孫に絵本を読むこともそんなにないし、一緒に遊ぶこともそんなにない。
歩けるようになってからは抱っこやハグもまずしない。どこかへ遊びに連れて行っても、連れて行った先で放し飼い。

娘が自分で選んで着た服を見て
「今日も妙な組み合わせの服を着ているね」と
多分、悪意なく指摘する。

可愛い服を選んで着ているときは
「きょう”の”服は可愛いね」と言う。
(普段は変な組み合わせなのにね)という否定が土台にある褒め言葉。


私は愛されてなかったわけではないと思う。
恐らく、両親の愛し方が上手ではなかっただけ。私もそうだからわかる。
否定ばかりされていたけど「毒親」なんてものではないと思っている。

でも、大人になって子どもを育てるようになって思うのだ。

「あなたが好き」とちゃんと言葉にすること。
相手を満たしてあげることの大切さ。
純粋に全力で褒めることの大切さ。
我が子を愛していることなんて、言わなくてもわかるだろうって思っていたかもしれない。でも発達持ちには、持たない人と比べれば特に「言われなきゃわからない」。
あなたを一人の人間として認めているということ。

だから私は、すごーく意識して、子どもに色んな気持ちを伝えている。
最初はこっぱずかしかったが、慣れてしまえば息をするように自然に褒められるものだ。褒められると子どもはやっぱり純粋に喜んでくれるものだ。

私は何を行動するにもいつも自信がない。
目立ったら誰かに否定されるんじゃないかという想いが常にある。
漫画を描いていることも、親には言っていない。
何でかって、言えば否定されるだろうと思うからだ。
これはきっと「否定される」土台で育ってしまった弊害。

教来石さんの活動も、成果が出る前は親から否定されてはいるけれども。
それでも幼少期に積み重ねたものがしっかりしているからこそ進む勇気が出るのだと思う。心の土台が、しっかりしているのだ。

私の心の土台が固まり始めたのは、一度目が鬱から抜け出したとき。
30歳手前、私は沢山の失敗を重ねて心が潰れた。
世界が全てモノクロに見えて、綺麗な音が聞こえない世界にいた。
体が動かなくて、一日中布団に寝転がって泣く時期が続いた。
でもそんな世界でも、少しずつ少しずつ、光に向かってもがく自分もいた。

抜け出したあとの、色の戻った美しい世界で夫に出会った。

「理解ある配偶者に出会ったことで特性持ちの人が楽になるという話がありすぎる」という意見をあちこちで目にするけれど、あれは、どん底にいる自分を配偶者になってくれる人が引っ張り上げるわけじゃない。
自力でどん底から這い上がってくるような人に、手を差し伸べたくなる人がいるだけだ。手を差し伸べた結果、好きになってくれる人がいるだけだ。
どん底で鬱鬱と小さくなってるだけの人は、きっと誰の目にも映らない。

鬱から抜けて夫と結婚して少しだけ自分が固まって。
もっと強く土台が固まったのが自分の特性を知ってからだった。
それは、40目前。
自分は自分でいいんだと、自分で自分に言うことが出来た。

「お母さんが大好き」と言ってくれる子どもたちと「変なことしちゃう君も好き」と言ってくれる夫がいつもそばにいてくれる生活になって、まともに立てていなかった今の私にようやっと自信の土台が出来た。

土台が出来てからの行動には、人がついてきてくれているように思う。
映画企画も土台が固まってからやっていること。
だから、私も、きっとこれから。

今回、「ゆめのはいたつにん」を読んで改めて”自分が目指しているもの”って何なんだろうって思ったのだ。

最近は漫画に燃えているけど、その漫画を描き始めたきっかけはそもそも子どもの未来のためだった。
見えづらい障害を抱えて、気付いて貰えずに苦しんでいる子が一人でも救われたらということを願って、漫画を描き始めたはずだった。
(この記事ではじめましての方は、トップ固定にその漫画があるので興味が沸いたら読んで見てください。)

ゆめのはいたつにん、ある1節で
「物語を伝えるコンテンツには人間のマインドセットを変える力がある」と書かれている。
漫画にも、きっとその力が。

でも最近は「どうやったら人気が出るか」「どうやったら収益になるか」ってことばかり考えてる気がする。あとは発達障害の漫画を描いたときに来た中傷の言葉が怖くて、悪意が怖くて、誰かを傷つける事が怖くて、このテーマに触れるのが少し怖くなっている、ということもある。

悪意に立ち向かいながらでも書きたいぐらいの意思が、最初にはちゃんとあったはずだ。でもいつしか、無難に作家としての人気を出すほうに私は注力しだす。

だって、生活もかかってるから。
日々の生活がちくちく赤字で、どう足掻いてもいつか貯金が底をつく。

自分一人なら多少無茶してもいいけれど、私には家族がいる。
お母さんが勝手にやりたいことをやった結果、家族が貧困に苦しむなんて事もあっちゃいけない。
中傷を受け、赤字に苦しみ、カツカツに切り詰めて生活しながらあのテーマの漫画に向き合う自信が私には無かった。無難な漫画を描いて、手堅く稼ぐ方へシフトチェンジしてしまうのはある意味当たり前。

「ゆめのはいたつにん」の中でも、無我夢中で突っ走るところと、ある程度人数を抱えた団体になって判断の仕方が変わってくる描写がある。
「守るべきものが出来た私は弱い」そんなようなことが書かれているけど、まさにそうで。
今の私に家族がいなかったら、多分もっと無茶をしている。
でも、そもそも家族がいるから今の私になれたわけで。家族がいるから漫画を描き始めたわけで。

家族がいなかったら、多分今も私は実家にパラサイトしながら無難に社会人をやっていたと思う。

そんなわけで、家族あっての私。
描きたいことを書くことと、家族に迷惑をかけないこと。
そこらへんのバランスを絶妙にとっていかないといけない。
今自分に出来る、小さなことを一つ一つ。

描きたいものを描き続ける勇気と、描きたいと思えないものも描く勇気。

それはどちらも、きっと今の私には必要なのだ。

「ゆめのはいたつにん」の中で「夢を追うとき頭に置いておきたい3A」という単語がある。

『あせらない、あてにしない、あきらめない』

私は、ちょっと焦っていたし、ちょっと人をあてにしようとしていたし、ちょっと諦めようとしていた。
(オイオイ、全部ダメじゃん)

ちょっとこれからは、3Aを意識していこうと思う。

今はまだ怖いけど、堂々と胸を張って自分の漫画を両親に見せられる日が来るといいな。
お父さん、お母さん。
その時は否定せず、どうか「頑張ってるね」と一言、言って欲しい。

子の頑張りを認める事って、思った以上に大切な親の仕事なのだ。

こちらが今回読んだ本。
カンボジアの子どもたちに「夢の種まき」をする人たちのお話。
おすすめです。

そして私の人生振り返りを以前ブログに書いたものを電子書籍にまとめてみた。ものすっごい長いので、まずは幼少期と思春期編。
まさに人生の土台の時期。

この後大学生になり、社会人になり、鬱になり、結婚し、ワーキングマザーになり、子の障害を知った後に自分が発達障害だと知って、そこでようやく今までの自分を受容、勢いあまって遊び場のない子どもの為に子どもが好き放題していいイベントを1人で開催しようとするんだけど、一人で突っ走る私に多くの人が手を貸してくれて大成功…というところまでブログに書いてある。

加筆修正しつつ、何冊かに分けて電子書籍にまとめてblogの方は消すつもり。

何で自分の人生を公開の場にさらけ出したかというと、子どもの人生を公開の場にさらけ出すため。

ハナが生きた最初の5年を、多くの人に知って欲しい。
ハナは周りと違う事が自分じゃわからなかった。
どうにかしたいけどどうにもできなくて、出来ない自分はダメな子なんだとただ苦しい思いをさせてしまった。
たった5歳の子どもが「自分は生きていない方がいい」と泣くほどまでに。

「周りと同じにしようとこだわらない方がいい」ということに、私がもっと早く気付いていればと未だに思ってしまう5年間。
それを、多くの親子や支援者さんに知って欲しい。

でも、子の人生について一方的に親が漫画にしてばら撒くのはオカシイと私は思っていて。
(そういった意味では、どれだけの育児漫画が子どもに承諾を取った上で描かれているのかちょっと気になっていたりする)

私は人の人生を晒す責任を負うために、まずけじめとして自分の人生を晒してから、ハナに承諾を取った。
何のために漫画にするのかも説明した。小学校に入る前までのお話だと約束した。ハナは納得してくれた。

「私みたいに、上手くできなくて、辛いことに気付いてもらえなくて、悲しい思いをする子どもが少しでも減るかもしれないね」とハナは喜んだ。

だからやっぱり、この漫画は書かないといけない。

そんなわけで私の人生については、単なるけじめ。
でも誰かの役に立つこともあるかもしれない。
人生をフルアウトプットすることは心のデトックスになって非常に良かったです。

そんな一冊目、幼少期・思春期編。

結局人をアテにしてるやんってツッコミがきそうですけど。
でも、作品を作っても誰かの手に渡らなかったらクリエイターは結局、生きていけません。経済的な意味でも、モチベーション的な意味でも。
100円というお手軽価格にしております。
今後の活動維持のチカラになりますので、買って頂けると嬉しいです。
感想なんぞも頂けたら泣いて喜びます。

サポートいただけたらそれも創作に活かしていきますので、活動の応援としてぽちりとお気軽にサポート頂けたら嬉しいです。