”相手の気持ちになって考えろ”について考える
今朝、夫とちょっとした口論になった。
私としては口論ではなくて、自分の思った事を伝えただけなんだけども、夫からしたら”責められている気持ちになって嫌だ”とのこと。
もちろん私自身、夫を責める意思は全くなかっただけに、そこで”責められた”と言われてしまう事は心外で。どうしてそう思わせてしまったのだろうかと言う事を考えてみることにした。
私はこうやって「疑問に思ったらとことん自分が納得するまで考えないと気が済まない」たちで、それを文字で客観視する癖がある。
この「客観視の癖」が恐らく自分が学習するのに良かったのではというのが結論に紐づくのだけれど、それは追々。
”相手の気持ちになって考えなさい”
私はよく子どもにこの言葉を言ってしまう。
考えなさいという命令形ではないにせよ、子どもがちょっと相手を不快にさせるであろう行動をしたとき「それを逆にあなたがやられたらどう思うかな?」という問題提起として言う。
子どもたちは大抵、わかってるのかわかってないのかわからんけど、「イヤダ―」と言って泣く。
でも夫はその言葉をほぼほぼ言わない。
それは何故かと言えば「相手の気持ちなんて、自分は相手じゃないからわかりっこない」という想いがあるからだ。
私と夫の朝の口論もそこから始まった。
「相手の想いなんてわかるはずもないのに”相手は嫌な思いをしたんだからわかれ”という相手の想いだけを押し付けられるのは不快だ。
俺はいま、人の気持ちをわかれと言われて『嫌な気分』だ。
”人の気持ちになって考える”事が出来る人なら『人を不快にさせた』ことはわかるはず。
つまり君は、俺を嫌な気持ちにするその言葉は言わないはずだ。
でも言うってことは、俺の気持ちを考えていないことになるだろ?
『俺の気持ち』はわかってくれないのに『他の人の気持ちを考えろ』だけ一方通行に言われるのはおかしくない?」
この口論。多分結婚してから?
いや、どちらかというと育児を始めてから幾度となくしてきたように思う。
愚痴やボヤキは共感を求める行為
夫は会社で起こった出来事を家でぼやく事がある。
多分そういうボヤキって、どこかしらで大抵の人がやっているんじゃないのかな。
「ねえ聞いてよ、今日会社でこんな事があって嫌な気持ちになったんだ」
そんな話をしたことがある人の方が恐らく大半で、したことがない人がいるとしたら凄いと思う。そういう人は嫌な気持ちになった心を、そういう行為以外で昇華させる術を持っているのだろうから。
こういう話を話す側は聞いてくれる相手に
「嫌な気持ちになったことをわかってほしい」という想いがあるはず。
つまり、「自分は相手じゃないから人の気持ちなんてわかりっこない」としばしば主張する夫は「俺の気持ちを相手に知って欲しい」という欲求はしっかり持っている。
ここで「私はあなたじゃないからその嫌な気持ちになった状況が想像できないからそんな話されても困るんだけど」って私が返したら、それはとても寂しいはずだ。
「確かに、相手は俺じゃないからわからないんだよな、仕方ないな」って納得できるならいいけれど、その理屈で納得できる人であれば、そもそもそんなボヤキを他人にはしないだろう。
逆に「え、それはあなたの方が悪くない?」と私が第三者的視点で夫批判をしようものなら「その場にいない君にはわかりっこない!」と言われてしまう。共感が欲しかったのに、共感してもらえるどころか批判されてしまったらそうなるのも当然だと思う。
でも、どうしても共感出来ない事もある。私はそこらへん馬鹿正直なので、どうしても共感出来ないボヤキは容赦なく批判する。
「それで相手が不快になる」事がわかっていても、私はそうは思わないときは共感はしない。
だって自分が共感出来ない想いに嘘をついて無理矢理共感することは、私にとって苦しい事だから。
相手の気持ちになって考えたとしたらいうべき言葉じゃないとしても、「私が嫌なことはしない」これもまた結局、自己中であるとは思うのだけれども。
そうさ。みんな、そもそも他人の事なんてわかりっこない。
でもみんな「自分の事はわかって欲しい」。
それは多分、間違いないと思う。
ってことは、わかりっこないとしても、人の想いを知ろうとすることって凄く大切だと、私はそう思うのだ。
私も昔は人の立場になって考える事が出来なかった
でも改めて考えてみる。
私も小さな頃から「そういうことをされた相手の気持ちを考えろ」という類の言葉は、嫌ってほど言われてきた。
その言葉を言われる時点で「自分が相手に対して嫌な事をしたのだ」という事実だけはわかる。そうでなければそんな言葉は言わないもんな。
でも相手の気持ちになって考える事は出来なかった。
だから何度も、同じ言葉を言われることになる。
だから夫が「責められているような気持ちになる」というのも凄くわかるのだ。なら言わなければいいのかもしれないけれど、でも、人の気持ちになって考える事は、とても大事な事だとも思っている。
伝える言葉が見つからないのでこうやって記事に書きながら考えている。
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20代のころ。
出産した友達の家に遊びに行ったとき「子どもが寝ないんだ」「夫が理解してくれないんだ」「子育てが辛いんだ」と愚痴をこぼされた。
その当時私は結婚すらしていない状態だったので、その辛さの想像が全く出来なかった。
「結婚をしていない私に、配偶者に理解して貰えない大変さはわからないな」
「子どもがいない私に、子育ての大変さはわからないんだよな」
そんな言葉を返したことを覚えている。
そして、それに対して友人がとても寂しそうな顔をしたことも、よく覚えている。
その友人は、その後少しして夫に子どもの親権を譲って家出してしまった。
今となっては音信不通。
子育ての大変さ、配偶者との見解の不一致をわかるようになった今となっては、救難信号に近かったであろうボヤキに対してなんという冷たい返しをしてしまったのだろうという後悔しかない。
知ってから悔やんでも、過去の自分が友人にかけた言葉はもう取り消せない。音信不通だから謝る事すらできない。
ただただ、私に残っているのは後悔のみ。
でも当時の私は「だって私はそれを知らないんだもの。わからないものに対して、共感も理解も出来るわけがないじゃない。そういうボヤキは理解しあえる親の会みたいなところでやればいい」と思っていた。
…し、そんなような事を直接相手にも言ったような気がする。
家出することにしたという連絡が来たとき「そんなに大変だったの?話を聞くから思いとどまって」と私が言ったのだが「だってあなたに話してもわかってくれないじゃない」という言葉が返ってきた。
今の夫が私としばしば口論になる「自分じゃない誰かの想いなんて、自分はその人じゃないんだからわかりっこない」という主張とまるっきり同じ想いを当時の私は持っていた。
だから「あなたに話してもわかってくれないじゃない」と言われた私は、「そうだなぁ」と、相手と対話することを諦めた。
そして彼女は、いなくなってしまった。
実際、共感しあえる仲間のなかでぼやいた方が多分お互いの辛さを受け止め合えるから楽な部分はあると思う。
ただ、だからといって、全く関係のない立場の人間がそのボヤキを受けたときに「”わからない”と返すこと」は相手にとってとても寂しい反応なのではないか。
分からないなら分からないなりに「わかろうとすること」
「知らない」で終わらせるのではなくて「知らない」世界を「知ろう」とする姿勢。
「知らなかった」と言う事に対する気付き。
もし全く相手の気持ちがその時わからなくても、知ろうとする意志が少しでも伝わるようなそういう返し方がきっとあるはずで。
心の理論
「人の気持ちになって考える」という行為には『心の理論』という名前が付いているらしい。
この「心の理論」。
子どもは大体早い子で4歳程度から自然に発達の過程で身についてくるものだそう。そして6~7歳になるころには、大抵身についている。
…定型発達であれば。
この力が弱いのが「自閉症スペクトラム」の要素を持った人なのだ。
”空気が読めない”アスペと言われる「人の気持ちになって考える」事が出来ない人は、ここの発達が非常に弱い。
自閉症スペクトラムの子はやっぱり端から見て「自己中」である行動が目立つ。知的遅れがある子であれば生活活動全般で出来ないことが多いため霞みがちになるのだけど、知的に遅れがない子の場合「会話や一般動作が全く問題ないにも関わらず、やってることは自分の事しか考えられないやつ」になってしまう。
でも自己中であることはある意味仕方がないのだ。
だって、それを理解出来る部分が発達しづらいのが、自閉症の特徴であるから。
つまり、ここが弱いうちの夫も、未診断ではあるけど多分自閉症の特性は持っている傾向にあるんだと思う。
本田秀夫さんの本でこんな本がある。
この本の中では「自閉症スペクトラム」の要素を持つ人は10人に1人程度だということが書かれている。
この10人に1人というのは「非障害自閉症スペクトラム」と「自閉症スペクトラム障害」にさらに分けられる。
「非障害自閉症スペクトラム」はアルファベットで記すと「AS」。
一般的に発達障害と言われるものになるとそれが「ASD」と、Dが増える。
ASDとはAutism Spectrum Disorderの略だそう。
dはdisorder(秩序が乱れた状態)の意味だそうで、日本語にしたときに「障害」の意味として使われる単語となっている。
つまり、10人に1人はいる「自閉症スペクトラム」の要素を感じている人の中でも別に日常生活に生きづらさを感じていない人は「D」が付かない「AS」。
本人が生きづらさを感じた時そこで初めて「障害」がつく「ASD」の扱いに変わるということである。
私は小さい頃からずっと色んな面でこの特性について人に非難されたり、否定されたりしてきた。だから何とかしようとするのだけれども、生まれつきどうしようもない部分も多々あるのでどうにもならない。
でもその「どうしようもない」ぶりが人には伝わらない。
出来る人にとっては「当たり前」の事が出来ない事が理解されない。
それが苦しくて苦しくて、生きづらさを感じる。
だから私は「ASD」の診断が付いているわけだけども、夫はそこら辺環境に恵まれたのか、本人の気質的なものか、それとも表出している特性が私と違うからそういう経験が少なめに済んだのか、私ほど「生きづらさ」を感じてはいない。(多分!)
だから夫は多分「AS」なんだろう。
それでも同じ要素を持っている者同士、何となくシンパシー感じて惹かれ合ってこうやって結婚して子どもを産んだのだろうなぁと思うけれども。
自閉傾向がある夫婦から生まれた子どもであればもはやサラブレッドなわけで、子どもたちが特性を持って生まれたのはもはや当たり前だなと思っている。
ただ願わくば、ASDがASに変わる日が来てくれますように。
私が『心の理論』を理解しはじめたきっかけ
「他人の気持ちなんてその人の人生を生きた訳じゃないからわかるはずないぜ」という思いをもっていた私が、今は出来るだけ自分の視点を出来るだけ相手の視点に合わせる癖のようなものを持ち始めたきっかけがある。
この記事の最初の方で書いた、こういうブログや日記で自分の想いを客観視することも多分、出来るようになったきっかけのひとつなのだけど。
それよりさらにハードな特訓のようなものだったんじゃないか、と思うことがひとつある。
それはSNSの「炎上」を経験したこと。
私は結婚した当時「mixi」というSNSを中心に使っていた。
mixiは一時爆発的に流行ったものの、いつの間にか廃れてしまって使う人はだいぶ減ってしまっている。
mixiには「ニュースつぶやき」「ニュース日記」なるものがある。
ニュースつぶやきはTwitterの引用ツイートのようなもので、ニュースを読んでの感想とか想いを短文でぱっと投げられるもの。
私はニュースを読んでは感じたことをつぶやいたり、日記に書いたりすることが好きだった。そしてそれに「イイネ」がついたり「コメント」が付くことで人と交流することを楽しんでいた。
だけど、とあるつぶやきが炎上した。
イイネやコメントが沢山つくと、つぶやきランキングみたいので上位に挙がってくる。そうすると大抵「あなたのその主張はおかしい」みたいな人が沸いてくる。変な人が沸くとコメントの数がどんどん増え。ランキングは上がり、野次馬的に両者の主張の味方をする取り巻きがどんどん増えていく。
すっかり「炎上」の状態。コメント通知を開くと、私を攻撃してくるような言葉がずらずらと並ぶ。それと共に「主さんは間違っていません」という味方も出てきて、コメント欄は混沌を極める。
私は自分の論を否定してくる人と、真っ向からいつもぶつかり合っていた。お互いがお互いの主張を正論として語るのだけれども、大抵が分かり合えることはなく平行線。
俗に言う「論破」。
お互いがしたくて頑張っているけど。平行線なのだ。
「これならきっとわかってくれるはずだ」と思って返す返事も全て否定の言葉で返される。私は喧嘩したいのではなかった。あくまでも「自分の主張を理解して欲しいだけ」であって「相手の主張を否定している」つもりはなかった。相手もそうだったのかもしれないけど。
人のつぶやきに「私はこう思います」という持論押し付けコメントをしに行くこともあった。
そのとき相手は「否定された」と思って、怒り狂って反論をしてくる。
「ただ伝えたいだけなのに」と、その度に私は疲れてしまって。でも、自分の考えは自分の考えとして真っすぐ持っていたい私はやり取りをやめられない。
でもそういう「ネット上の喧嘩」を何年もやっているうちに「どうすれば喧嘩しなくて済むようになるのか」を考えるようになる。
その結果自分の主張ばかり前面に出すのではなくて、相手の主張もしっかり読むことを始めた。
そうすると「共感は出来ないがそう思う人がいることの理解は出来る」ものも結構あることがわかってくる。
そう思えるようになってから、私のつぶやきが炎上することは減ってきた。
そうなってきたころ。妊婦の立場から妊娠のニュースを読んで「妊婦は見た目より大変なんだ」っていうつぶやきをした。
それが、炎上してしまった。
私に対して攻撃的なコメントが大量に押し寄せた。
私はそのコメントひとつひとつに、冷静に言葉を返した。
「そう感じてしまう人がいるんですね。私のつぶやきがあなたを嫌な気持ちにさせてしまったようでごめんなさい。でも、しんどい人がいる事も知って欲しいんです」
どんな攻撃的なコメントにも、汚い罵りだけのような言葉にも、ただ丁寧にそういう言葉を返した。
そのとき野次馬的に見ていた第三者さんが「主さんは現在妊婦とのこと。精神的に不安定になりがちだろうに、感情的にならずどんなコメントにも相手を不快にさせないような冷静な返事を返していて凄い」という、つぶやきともニュースとも関係のないコメントを書いてくれた人がいた。
何だか私は、それが凄く嬉しかった。
客観的に見て、そういう返しを自分が出来ていると誰かが認めてくれた瞬間。
それは「相手の気持ちを考えろ」と言われて育った私にとって素晴らしい評価の言葉だった。
そして、そうやって冷静に返し続けたコメント欄は、それ以上炎上することはなくなった。
「私の主張が」をただ言い合っているだけだと、喧嘩にしかならないんだ。意思のぶつかり合いを繰り返したことで、私も私なりに学習して、多少は「人の気持ちを考える」事が出来るようになったわけだ。
私は多分、知らず知らずあそこで「心の理論」トレーニングをしたのではないかなと思っている。
10人に1人は自閉症の要素を持っているとすれば、炎上を巻き起こすタイプは自閉要素を持っている人なんじゃないかなと今となっては思う。(障害に至るまでに達しているかはともかくとして。)
他者の持つ主張を理解しようとせず、自分の主張だけを押し通そうとするのはまさにそれだから。
でも、人との対話をすることによって、全くできなかった私が多少は出来るように変わった時点で「理解するのは無理」なわけでもないのだろう。
ただ、自分自身が「そうしたい」と思う事が出来ない限りは変われないと私は思っているので、夫や娘にそれを求めすぎるのも難しい事だなと思う。
夫に『SNSで炎上して、全て相手を怒らせないようにと考えながら返事をしてみて』なんて言ったからってやるわけがない。
昔の私でもそんな事言われたら「はぁ?何言ってんの?やるわけないじゃん」って返すだろう。
共感性=心の理論ではない
ただ、思うところがある。
人の気持ちがわからないということは、共感性が低いのか?ということ。
ここ、イコールではないと私は思う。
夫は、アニメや漫画、ドラマなどを見て物凄く泣く方である。
下手したら数秒のCMですらも泣く。
架空の世界にいる人間やキャラクターに感情移入するからこそ、感動して泣くということになるわけで。それだけ泣くということは夫は共感性に関しては物凄い高いと思っている。
ちなみに自己中な行為が多い長女のハナも、アニメとか見ていて泣き出すことは結構ある。こんな小さいのに、物語のキャラの気持ちになって泣けるなんてすごいなぁと私は感心する。
私はむしろ「こんなの作り話だしな」という目でしか見られない分、なかなか感動して泣くことがなかった。ある意味「他人は他人。自分じゃない存在の気持ちはわからん」の考え方が私の場合一貫していたということになる。
でもよく泣く夫と結婚して、子育てをして、SNSで特訓して?
私は物語に対し凄く共感出来るようになって、今となってはテレビを見ながらキャラクターに感情移入して泣けるようになった。
ただ、私が涙ポロリぐらいの感動をしている時、夫は「ティッシュが足りません」ぐらいの感動をしている。
だから、彼の共感性は、スゴイ。素晴らしいのだ。
つまり私と同じことをしないにせよ、他者の気持ちを考える心の理論を彼が身に付けるようなことがあったら。今よりもっと、人として素敵になれるんだろうなぁと思う。
夫も娘も、アニメやドラマの登場人物には感情移入出来るのに、目の前で起こっているリアルな現実になると相手に感情移入出来ない。
それは「自分の客観視」が出来ないことによるのではないかと思っている。
ドラマやアニメは「全てが他人」である。
だからどれかの人物に自分を重ねる事でその世界に入り、その感情を自分のものにする。
それでもあくまでもそれは物語のキャラクターであるから、重ねられた人物も、それ以外の存在も冷静に見る事が出来る。
それを、現実世界でどれぐらいやれるか、ということが「心の理論」を身に付けるためのヒントなんじゃないのかなぁと私は思う。
喧嘩した時に不快の原因を考える
今朝の喧嘩、私自身は不快になっておらず夫だけが不快になってしまった。
つまり喧嘩ではなくて、ある種の「論破」になっていたのだと思う。
私も「心の理論」を大分身に付けたぜ!なんてここまで語ってきたけれども、それが身についたからって他人の心を100%理解出来るわけではない。
結局のところ他人の事なんてわからないのが当たり前で。
でもだからって、”わからないから仕方ないよね”って諦めてしまったらそこで試合終了ですよっていう安西先生(謎)
だから私は「なんで夫を不快にさせちゃったのかなぁ」を何時間もツラツラ考えている.
夫は多分本気で「人の気持ちがわからない」ことはわかった。
そこに「わかれよ」とただ言われたら嫌になることもわかった。
でも、わかってもらえないと人は悲しい。
じゃあ、どうしたら夫が自発的に「わかりたい」って思うようになるのかなぁと思う。
これは夫だけじゃなく、娘についても同じことだけど。
自分を「ドラマやアニメの登場人物」のようなものだと思って出来事を見られるようになれば、私なんかよりずっと、夫と娘はむしろ物凄く人の気持ちを思う事が出来る人になると思う。
人の気持ちを考えすぎて自分を出せなくなるという事もあるから、適度に自己中であることも勿論大切ではあるのだけど。
漫画に描いてみた話
長女ハナが登校拒否をしたときに書いた漫画がある。
何で学校行きたくないか聞いたとき
「トモダチが私のこと”嫌い”って言った」
「その子と遊ぶのが怖い。だって嫌いって言われたら私は傷つくから」
そんなような話をされたことがある。
私はそれを聞いて、確かに「嫌い」って言われる事は悲しいなと思った。
でも意味も無く「嫌い」って言う子もいないんじゃないかと思った。
ハナが何か相手を悲しくさせたから、相手はハナに「嫌い」と言ったのかもしれない。
ハナの主張は「嫌いって言われた私は一方的な被害者で、そういう言葉を私に言った相手はひどい」というものだった。
なんで「嫌い」っていう言葉を相手が言ったのか、それについて考えてみた?と私は言うが、ハナはわからないという。
突然「嫌い」と言われたんだと。
連絡帳に、そのケンカのことは書いてあった。
お友達は、身体を動かす遊びをしたくてハナを誘った。
でもハナはやりたくないからと断った。それによって喧嘩になったようだ、と。
果たしてその時のハナの断り方は、相手の気持ちを考えていただろうか?
楽しく一緒に遊びたかった想いが、断られて寂しいという想いになり「嫌い」という言葉になってしまったんじゃないだろうか?
それを言葉で伝えても、ハナはわからないと泣いた。
だから私は、漫画を描いた。
登場人物を動物で描くことで、より客観視できるよう工夫。
身体を動かしたい友達=お散歩が好きなカンガルー
のんびりしたいハナ=木登りが好きなコアラ
「この漫画を相手の子と一緒に読んでみて」
喧嘩した時は大抵「どちらだけが悪い」っていうことは、ないんだよ。
ただ「相手が悪い」だけ考えているうちは辛いだけ。
だからこそ、相手はなんでそういう事を言ったのかなって考えて、自分はどうしたらよかったのかなって考える事が凄く大切だと思うんだよ。
ハナはこの漫画を見て、すごく喜んだ。
そして翌日、漫画を学校に持って行って、友達と一緒に読んだ。
友達は「優しい言葉を使うように気を付ける」と言ってくれたらしい。
ハナがそれにどう返したのか、それはわからないけれど。
今ではまたその子とハナは仲良しだ。
立場や考え方が違う存在と、どう価値観をすり合わせて仲良くしていくか。
定型発達の子はそれが自然と身についていく。
でも、発達障害のある子はそれが自然にはなかなか身につかない。
こういうトラブルを繰り返す中で「わかんないから」と諦めてしまうと、大人になってから色々苦労するように思う。
人と人のぶつかり合いになる喧嘩からそういう事を学んでいくことで、大人になったとき嫌な思いをしない、させないようになれるんじゃないかな?と私は思っている。
だから朝の喧嘩も、私としては全然悪い事じゃなくて。
考え方のぶつかり合いが起こったときに、どうしてそうなったのかを考えてみることによって、自分と相手の意見を客観視できるいいきっかけになったと思っている。
だから夫も「なんだよ俺の気持ちは考えてくれないんじゃん」で終わるんじゃなく、何かを考えるきっかけになってくれたら嬉しい。
私は夫の気持ちを考える気がないわけじゃない。
むしろ前はその立場にあったから、気持ちはめちゃくちゃわかるのだ。
ただ、そのままのスタンスでいられると、家族として一緒に過ごす中で苦しくなってしまう時がきっとくる。
「お父さんは私の気持ちをわかってくれない!」といつかハナが泣いたとき
「そうだね、俺はハナじゃないからわからないよ」と返すことは、どう考えても親子関係がいい方向に転がる言葉じゃない。
もし、そんなドラマがあったら「なんじゃこの父親は」「そんな言い方はないだろ」と思えるかもしれない。
『何ていう言葉を返したら、少しでも傷つけずに済むだろうか』
私はいつもそうやって考えるようにしている。
けど、ここ数年でようやく身に付けたスキルなので、どうしてもめんどくさくなることも多くて…決して最適ではないであろう返しをしてしまうこともしばしばある。
それでも、反省と後悔を繰り返しながら、少しでも改善して生きていくのがいいのかなぁなんて思っている。
だから、夫にも。ちょっとだけでも「自分がドラマの出演者である」ぐらいの視点で物事を見られるような思考が出てきてくれると嬉しいなぁ、と思うのです。
最後まで読んでくれた方いましたら、私の拙い文や思考にここまでお付き合いいただいたことに感謝を.