自分のコピーに嫉妬している
先日、過去の悲しい記憶がフラッシュバックするようになったという記事を書いた。
泣きながら目覚めることがその後数日続いたが、ここ最近は落ち着いている。が、あのあとからやたらと夢を見るようになって、脳が今までと何か違う働き方をしているようにも感じる。
先日、とある作家さんの講演会に行った。
その講演会で作家さん本人を見たとき、なんとも言えない感情が沸き上がった。
"ああ、このひと、実在したんだ"
正直そういう感覚だった。
自分も作家業みたいなことをしている身だから、作品の向こう側に確かにそれを創り出している『ひと』がいることは、感覚的にわかっているつもりだった。でもやっぱりその存在を実際に見たときそれは所詮感覚でしかなかったのだと感じた。
その作家さんがその時話していたことが、後になってもずっと頭に残っている。
作品を読んだとき、その向こう側に確かにいる『ひと』の存在。
確かにあくまで私の個人的共感ではあるけれども「良い小説」を読んだと感じたとき、その先にいる作者のことを考えることというのは少ない。
それは小説だけでなく、漫画でも、絵画でもそうだ。
「良い作品」はこころに残っても「作者」がセットで残ることはない。
それは大抵、作者が表舞台にあまり出てこないときに良く起こる。
手塚治虫先生は写真も出しているし、映像にも残っている。
「鉄腕アトムを描いたひと」であり「火の鳥を描いたひと」であり「ブラックジャックを描いたひと」であり、多くの偉業を成し遂げた「ひと」。
鳥山明先生が亡くなったと聞いたとき、多くの人が思い浮かべたのは恐らくドラゴンボールだったろう。作者そのものよりも、作品だ。
鳥山明先生は、ほとんど表に姿を出していない。
つまり私の場合もきっとそうだ。
『水谷アス』という、ネット上をメインに活動している私と、本名で確かな肉体を持って動いている私。同じ私だけど、違う私。
水谷アス"だけ"を知っている人は、その存在が本当にいるのか、どこでどんな生き方をしているのかを知るすべはない。むしろ、私は、あえて知るすべがないようにしている。
何故かと言えば、私があえてこの『水谷アス』というひとつの存在をあえて自分と違う場所を生きる別人格として切り離したからだ。
現実世界でのわたしの言葉は、以前書いた記事の通り、いつも否定されていた。
「普通そんなこと言わないよ」
「なんか変だよね」
「なんでそんなひどい事言うの?」
ペンネームを作って活動し始めた最初の頃はそんな意識ではなかったけれど、今となっては「現実世界で否定され続けた言葉を、ネット上に住まうアバターのような存在に代わりに喋らせるようにした」結果生まれたのが今の『水谷アス』なのだと思う。
私が現実で言いたくても言えないことを、水谷アスが言う。
少し注目されるようになった頃の水谷アスはそれなりに炎上した。
本当に言いたいことを言いたいように言っていたことも大きいと思う。
誰かが傷ついてもお構い無しで、言いたいことを言う。
だってそう思ったから。
今の自分は少しだけそのあたり学習した。
この言葉回しだとこういう立場の人を傷つけるかもしれない、といろんな立場の人を想像しながら発信するようになっている。もちろん全ては想像しきれないし、あらゆる人を傷つけないようにと考えすぎると結局何も言えないので「前より言葉を選ぶ」ようになった感じ。
水谷アスが炎上しても、現実世界で私が水谷アスであることを知っている人というのは限りなく少ない。ネット上でどんなに存在を否定され、言葉のタコ殴りにされても、現実の私は無傷で生きている。
切り離しているからこそ、そのダメージは少し離れたところにある。
それでも否定的な言葉を投げかけられればしんどくて、何度も活動を辞めようか迷った。
迷った挙げ句、結局また何かを描きに戻ってくるのは、自分が聞いて欲しい言葉がまだまだたくさんあったからだと思う。
私は「こう思う」という意思表示をしただけで、昔からよく人を怒らせたり、泣かせたり、傷つけたりしていた。
私は「こう思う」を、どんどん言えなくなっていた。
だからネット上のアバターに代わりに言ってもらったのだ。
その言葉を肯定的に受け止めてくれる人は、最初こそほとんどいなかったけれど、少しずつ増えている。
水谷アスのときの自分は「私はこう思う」を堂々と言っていい。
私は「人前で何かを話そうとすると動悸がひどくなる。手が震え、足が震え、声が震え、ひどいときは泣き出す」という体質である。
それは結局のところ「自分の思いを口にすることで、誰かを傷つけたり自分が傷つくことが怖いから」なんだと思う。
でも水谷アスでいるときは大丈夫。
肯定的に受け止めてくれる人がいることを、私はよく知っている。
堂々と気持ちを文字にする。漫画にして状況を描く。
声に出してVoicyで話す。
現実の私が出来ないことを、水谷アスは全部やってくれる。
全然手は震えない。
声も足も震えない。
心臓の動きが乱れることもない。
水谷アスが言った言葉に「救われました」と言ってくれる人がいる。
それがすごく嬉しい。
水谷アスの作品に対して「好きです」と言ってくれる人がいる。
それがすごく嬉しい。
水谷アスが発信したものが、確かに誰かにとって前向きにはたらいたことを実感するとき。
自分が発した言葉で傷つけた誰かや、その時一緒に傷ついた自分自身も癒やされるような感覚があった。
でも、なんだろう、どこか寂しい気持ちがあった。
この寂しさは一体なんだろう。
その正体が、少しだけ見えた。その尻尾を今日捕まえた。
忘れないように今これを文章にしている。
『自分の言葉を受け入れてもらえなかった私』と
『多くの人に受け入れられて称賛されている私』は
間違いなく同じ人物である。
同じ人物だけど、切り離されている。
最初に水谷アスを作った頃。
痛みを受けたとき、それが私に直接伝わらないように私はその存在を切り離した。現実世界の私の心は弱っていたから、批判的なことばひとつで世界が終わったかのように落ち込んだ。
でも大丈夫。画面を見ないようにさえすればいい。
嫌なことばを受け取らないで済む存在を自分の外側に作ったことは、自分の心を守るために必須だった。
現実世界を生きる私と、創作世界を生きる私は、同じだけど違う私。
最初の頃はそれで良かったのだ。
でもだんだん『水谷アス』の言葉が、作品が、多くの人の目に触れ、多くの人からの感謝の言葉を受け、たくさんの「フォロワー」という形で支持される様子を見ることが、嬉しい反面どこか寂しい。
その寂しさの正体がずっとわからなかった。
現実世界で会う人に自分が今やっている活動を話したとき
「実はインフルエンサーなんですね!!」
…と言われた瞬間、冷めてしまう自分がいる。
目の前に私がいるのにも関わらず、その人が見ているのはネット上に住まう「水谷アス」なのだ。
身近な人から「フォロワー増えてすごい」「バズって数万いいねをとっていてすごい」と言われるとつらくなった。
フォロワーが増えているのも、いいねを取っているのも。
私だけど私じゃない。
この人がすごいと思っているのは目の前の私じゃない。画面の中の私だ。
直接目の前にいる私は友達も少ないし、自分の言葉に「いいね」なんてもらえない。
地元のちょっとした飲み会に誘われて参加したとき、最初は「ただの地味な主婦」ぐらいの自己紹介をして、私はそこにいた。
人の会話の流れに乗るのが下手くそすぎる私は、聞くことで精一杯。
下手に喋って失敗したら怖い。だから喋らない。
一体私は何をしにここに来たのだろうと、そこに参加したことを後悔した。
話の流れで自分のやっている活動の話になり、ペンネームを伝える。
その場でみんながスマホでその名前を検索し、画面の中の私に言う。
「すごい人だったんですね!!」
「拡散力めっちゃあるじゃないですか!」
「地域活性に力貸してくださいよー!」
「なんか漫画とかお願いしちゃおうかな」
この人たちは目の前にいる私にではなく、画面の中の『水谷アス』にそれを言っている。でもその言葉を目の前の人から直接受け取るのは私だ。
画面の中のその存在は、私じゃない。私だけど、私じゃない。
あえて切り離したのは私だ。
水谷アスが負う痛みを直接背負わなくていいように。
実際、どんなに水谷アスが攻撃されても現実世界は平和だ。
でも切り離した結果、遠ざかったのは痛みだけでなかった。
喜びも一緒に切り離されている。
痛みを与えられる機会より、喜びを分かち合える機会がどんどん増えてくるにつれて寂しさが増す。
それの理由がやっとわかった。
恐らく私は、あえて切り離した自分に、嫉妬している。
自分で自分に嫉妬なんて、まさか。と思った。
でも、だからこそなかなか気付けなかったのだ。
ドラえもんに出てくる「コピーロボット」というものがある。
鼻を押すとその人そっくりのもう一人の自分が作り出せるアイテム。
のび太くんが面倒なお手伝いをコピーロボットにお任せした結果、コピーロボットがママに褒められたりご褒美におやつをもらったりしてしまい、それを見た本体ののび太くんが悔しがる…みたいな話があったと思う。
あの世界で「お手伝いをした」のは紛れもなくのび太くんそのものだった。
のび太くん以外の人はのび太くんがやってくれたと思っている。
でも、実は、のび太くん本人は称賛されていない。
自分にそっくりなもう一人の自分が称賛されるのを外側から見ている。
今、私にその状況が起こっている。
水谷アスは私と同じ能力と記憶を持つ、ネット上に作り出された私のコピーロボットだ。「批判される」というしんどいところをすべて受け止めながら、言いたいことを私の代わりに吐き出してくれた。
認められなかったことばたちが認められていくのを見るのは嬉しかったけど、水谷アスという存在が喜ばれるにつれて、自分はそれをただ傍観している本体としての寂しさを感じるようになった。
Voicyだとスラスラ喋れるのに、人前だと喋れない。
それは多分、目の前の人に認めてもらえた実感を得ることが出来ていないからだ。
沢山の人に支持してもらって、感謝される水谷アスを自分から切り離してしまっているからだ。
「私のことばは、まだちゃんと私のことばとして聞いてもらえていない」
心の奥底にいる否定され続けた小さな自分が騒いでいる。
水谷アスのことばは、私のことばだ。
現実世界の自分が自信を持ってそう言えたなら、この寂しさは埋まるだろうか。そうなるためには、多分「水谷アスとして人前に出る」ことが必要になるんだろうと思う。冒頭で書いた、講演会でお話していた作家さんがやっていたようなこと。
作品やことばの向こう側に確かに実在する「ひと」として表に出ること。
それをすることが、今はほぼネット上にだけ存在する『水谷アス』としての私と、肉体を持つ実際の私をまたひとつに統合すること。
とはいえ、それをすることはとんでもなく私にとって恐ろしい。
とりあえず今日はこの「寂しさのしっぽ」を捕まえて、それの話を聞けただけでも一歩進んだんだと考えることにする。