絶対満たせない寂しさがあるから出来ることがある
問題解決セラピスト養成講座の受講が終了しました。
これは深夜3時に寂しい夢を見て泣きながら目覚めて書いております。
どんな夢かというと、みんながワーッと遊びに繰り出す中、上手にその仲間に入れなくて部屋に残されてしまって。
まぁいっか。と割り切ってひとりでいたら「こっちで遊ぼう」と、一人の人が遊ぶのに誘ってくれて。
誘ってもらえたのが何だかんだ嬉しくて一緒にゲームするんだけど、協力プレイなのに全く協力出来ずにゲームのキャラが死にまくって、相手に後ろめたい気持ちばかりで全然楽しめないという夢です。暗い。
しかし、今の気持ちを最高にわかりやすく端的にまとめた夢で、なるほど、そういうことか、いい仕事してんなぁ私の脳…と感心している次第。
セラピスト養成講座はほんと良かった。受けて良かったです。得るものたくさんあったし、何より人と関わるのが楽しかった。
最終回は思ったほど今まで受講した内容と比べてガツンと来るほどの得るものがなかったなぁと思っていたんですけど、そうやって気を抜いた最後の最後に『それでは総まとめをお伝えします』という出来事がやってきました。
私はAPDという障害があります。
聴覚情報処理障害。
環境にあるすべての音が同時に脳に入ってくるために、騒がしい環境で人と会話することが難しいというもの。
一般的な人の脳には『カクテルパーティ効果』というものがあって、聞きたいと思った情報を選択して聞き取れるものらしいんですが、私はそれが出来ません。
これ、今のわたしは『大事なものがわからないんじゃなくて、全ての音が大事だと思ってる』という解釈をしてる。
その場にあるあらゆる音情報を取りこぼさないように拾おうとしてしまうんですね。でもそれ故に特定の人の話を集中して聞けない。
さらに心理検査の結果では音声ワーキングメモリが低いです。会話情報をその場で瞬間的に出し入れできないというものです。
でもコレも多分、APDの影響があると思う。人の話を覚えたいのに関係ない音情報まで覚えちゃってるから処理しきれなくなってるんだろうなと。
前に、子どもが心理検査受けたとき、ワーキングメモリの数値が際立って低かったんです。心理士さんが「検査のときたまたまドアの向こうで小さな子が癇癪を起こしていて、それをずっと気にしていたせいで検査に集中出来てなかった。もしもっと静かだったら恐らく結果は違ってる」と言われました。多分私のワーキングメモリの低さもそういうところ、あるだろうなと思うんです。
でも、結局のところ世界には音が多い。
静かじゃないと発揮できない能力なら殆ど使う機会なんてない。聞きたい人の話だけの音しかない環境なんてそうそう作れないんですよね。
日常は雑音に満ちている。
それ故に、わたしの『人の話が聞けない』ということは、人と関わるために1番弱いところ。
今回すべての講座日程が終わりました。普段は飛行機の時間の都合で途中抜けしていたのだけど、最終日は最後に修了式があるからと2泊して最後まで参加したんです。
で、最後に懇親会というのがあるんだけど…そこが私の今回の講座最後の学びの場だった。最後の最後まで学びがあるとは。感謝ですね。
懇親会、みんな盛り上がってるのでアチコチが色んな話で盛り上がっています。
私はすべての話が聞こえてしまいます。目の前の人の話も、隣の卓の話も。聞きたい情報をうまく受け取ることに必死で、自分が話すどころじゃない。たまに頑張って参加するけど、たった一言を会話の流れに乗せて発することだけで必死です。
途中、早く帰らなければいけない人が卓から抜けてしまったりして、会場に沢山人がいるのにテーブルで一対一になってしまいました。相手の方は特にお話が大好きな印象のある方。
私はそれまでは他の人の話を聞く中心で過ごしていたけど、一対一なら喋らざるを得ない。向こうの方も気を使っていろんな質問をしてくれます。でも、私は質問を受け取ってその答えをひとこと返すだけで必死なので、会話が全く膨らみません。
せっかくの楽しい場でこれはあまりに申し訳ない。なにか喋らなきゃ、こちらからも質問しなきゃと思うけど、受け取ることにキャパを使いすぎて頭の中に言葉を作り出すことができません。
脳がオーバーヒートみたいになって思考が停止してしまう。でも、向こうの方は気を使って話しかけてくれる。
ごめんなさい、喋れないんです。
あまりに申し訳なくなって座席の移動を提案しました。私は喋るのが下手だから、私を置いて違う席に行って下さいと。
そしたら一緒に移動しましょうと誘ってくれた。いい人。
でも移動した先でも結局人の話に参加なんて出来ない。聞くだけで必死。
人の話をただ聞いてるだけでも楽しいけど、たまに話をふられると焦る。だって、会話の半分くらいは聞き取れていないから。
しかも自分の声はあまり通りが良くなくて、ザワついた環境では相手には聞こえづらいらしい。聞くにも話すにもとことん『集団の会話』に向いてない。
聞き取れない、届かない。沢山の人の中で自分の存在が薄く透明になっていく感覚。
これがさっき見た夢そのもの。
誘われても入れない。入れても結局うまくやれない。うまくやれなくて申し訳なくなる。いっそ入らないのが楽だなと思う。
長縄跳びが下手くそな人のような心理です。
セラピスト養成講座の最後で、すべての日程に参加しての感想を一言ずつ伝える、という時間がありました。
「私は最初、人と関わるのは苦手だし、パソコンを通じて画面の向こうの人と関われたらそれでいいかなと思っていました。
でも最初に矢野先生のカウンセリングを受けて、色んなことが変わって。もっと上手に人と関わりたくなって今回の講座を受講することを決めました。
オンライン講座だと思っていたのに、今年からオフライン講座になって。人と関わるの苦手なのに、できるかな?と思っていたけど、やっぱり人と直接関われることは画面を通してでは感じられない温かさがあって、とてもいいものだと思いました」
そんなようなことを話したと思う。人前で話そうとすると半分意識飛ぶから良く覚えてないけど。
実際、ほんと、直接人と対面して、心の深いところも色んな人と話せたことはとてもいい経験でした。
人っていいなぁ、と思いました。
でも懇親会で上手に輪に入れなかったとき、そうだ、この感覚が嫌で私はひとりを選んでいるところもあったんだったな、と改めて思い出したり。
入りたいのに入れない。
入れたとしてもうまくやれない。
うまくやれないことが申し訳なくてひとりになることを選ぶけど、楽しそうな人の輪を遠巻きに眺めるその瞬間がたまらなく寂しい。
その寂しさは人と関わりたい気持ちの渇望。
その渇望があるから多分私は文章を書くし、漫画を書くし、音声配信をするのだと思います。
以前、椎原崇さんのメルマガで読んだんだったかな。
「多分何かを発信することを生涯の生業とする人がいるとしたら、多分その内容は、その人が死ぬまで満たされることがないことを満たそうとする内容だと思います。
満たしたいその欲求は、残念だけどどんなに頑張ってもきっと満たされません。ただ、あなたが満たされないからこそそれがエネルギーになるんですよ」
みたいな話。
それを読んだとき、私の満たされないものってなんだろうと漠然と考えていたけどよくわかりませんでした。
でも、今回わかった。
これか。と。
今回講座を受けて他の方と話す中で「沢山アウトプット出来てスゴイ」とか「発信し続けられてスゴイ」とか「言語化能力高くてスゴイ」とか褒めていただけることが多々ありました。
すごい努力と才能ですよね、私にはそれがないから羨ましいです、と。
でもそういうことを言われる度に何だか違和感があって。別にコレ、私は努力と思ってないんだよなーって。才能というより、人と関わろうとしたらこれしかなかった、っていうだけの話なんだよなって。
だからそれでお金を稼ぎたいとも思わない。読んでくれるだけで、聞いてくれるだけでうれしい。
無料電子書籍にするのがすごいとか、ビジネスにするつもりがないのがすごいとかも言われるけど、だって私、聞いてもらってる側だもの。なんでそこで私が相手からお金を取るんだよと思うだけなんです。
もしも私が上手に人の話を聞けて、上手に言葉を返せる人だったら多分この能力は身についてない。
自分の声を聞いてもらいたくて必死で生きて来る中で知らず知らず身についてしまった能力。
それが、羨ましい?
どんなに誰かと親しくなっても、その相手が大人数になったとき私は輪から弾かれる。恐らく永遠に人の『会話の輪』に入ることが出来ないという寂しさと引き換えに沢山の考えをわかりやすくアウトプットする力が手に入るとしたら、それでもこの能力を手に入れたいと願う人はどれだけいるんだろう。
むしろ私は、皆さんの、沢山の人の中でも会話できる能力が羨ましい。
人は無いものを欲しがるものですね。
受講した方とお話してるとき、顔出ししないで発信するのAdoみたいでいいですね、そういえば声も低めで似てますねと言われました。
でも、Ado自身は声がコンプレックスなんですよね。小さな頃から声が低いと言われてよく泣いていた、みたいなのを見たことがあります。
でも世間はあの声がいいんだと、あんな声で歌えるようになりたいと羨む。
低い声だと否定されたコンプレックスの声を羨まれることを、Adoはどう感じるんだろうなと思います。
私も、音声配信してると静かで落ち着いたいい声だと言われます。
でも、私の声は居酒屋では相手に届かない声です。教室で拾ってもらえない声です。
自分が発言したことばが、誰にも受け取られずに雑音の中に解けて消えたことが今まで何度も何度もありました。
永遠に満たされないものを満たそうと努力することが何かを届ける力になるなら、私はいつまでも自分の届けられない声を誰かに届けることを必死で続けるんだろうと思います。
最終回のワークで『欠点を許すワーク』というものをやりました。演習のとき、私は自分の外見の話をしました。
自分の顔が好きじゃないので。
そのワークでは、その欠点があったおかげで成長できたところがあるとしたら何か?欠点を補うために何をしてきたか?
その欠点はあなたの中のどんな望みに繋がっているのか?をカウンセラー担当の方に順番に問いかけてもらって考えるのですが…
自分の顔が好きじゃないから人前に顔を晒すのが嫌だという欠点は、自分を努力させるきっかけにはなっていなくて。この欠点があって良かったなぁと前向きに捉えられるものも見つけられなくて。
なんかしっくり来ないワークだったんですよね。
このことを音声で話してたら何となくわかったんですけど、これ、欠点じゃなくてトラウマだなと。私が自分の顔を好きじゃないのは、身近な人から顔立ちを否定されまくったからなんですよね。
「夫婦の悪いところを寄せ集めた顔だね」
親戚が集まると良く言われました。
父は「金を出してやるから整形しろ」と何度も何度も私に言いました。
友達も「テレビに出てるあの人に似てるよね」って言うとき、決していい意味でない人の名前をあげました。
基本男性だったし、女子高生なのににてると言われた人はおっさんだったし。
だから私は自分の顔が嫌で仕方ない。
でもこの欠点があったから頑張ったことなんてないです。お化粧して綺麗になろうとか、その分勉強して賢い女性を目指そうとか、顔を理由に頑張ったことは特にないと思う。むしろ色んな事を諦める理由にしてきたような。
夫と子どもたちがお母さん可愛いねーって連日言ってくれるので、人によってはそう思ってもらえると感じていて。今はそこまで自分の顔が嫌いではないです。
ただ、自分が写った写真は見たくないけどね。(明らかにまだ嫌いだろう、それは)
でも、その欠点を許すワークで「ほんとうはこうしたかった」を話したとき「顔なんて気にしないで娘としてただ愛してほしかったし、可愛いと思われる娘でありたかった」という、父への想いが出てきて"実は私はそれを望んでいたのか"とハッとしたので、それはそれで良しとする。
あと、カウンセラー役の人が、「お父さん、それはあんまりだよ」とか「僕は魅力的な顔だと思いますよ」とか言ってくれて、地味に自己肯定感上がった。
とはいえ、このワークはほんと、しっくりこなかったんです。だからこれ、欠点じゃなかったんだと思う。
自分に足りてなかったものというより、周りから植え付けられたトラウマだ。
でも、そこに、『人との会話が出来ない』という今回痛感した欠点を当てはめたら、ものすごくしっくりきたんですよね。
欠点があったからこそ頑張れたこと。
欠点があったからこそ身につけたもの。
欠点はどんな欲求を私に伝えているか?
あなたはその欠点に向き合うとき誰に何をわかってほしくて、なにをしたくて、どうなりたかったのか?
ここまで書いてきた文章がその答え。
私は人の輪に入れなかったからこそ、文章や絵で伝え続けてきたし、人と上手に話したかったからこそ音声配信も続けてこれました。
それは人の輪に入りたいという、満たせないけど満たしたい願望があったから。
本当はみんなの中に入りたかったんだね。
欠点は受け入れるのではなく、受け入れてもらうもの。
だって今まで散々「コレさえ無ければ」と、そこを自分のだめなところとして虐げて生きてきたでしょう。
いじめっ子がいじめられっ子に対して「お前を受け入れてやる」なんて言えるはずがない。そしていじめられていた側がそれを受け入れるはずがない。
だからむしろ「今までゴメンネ。君のお陰で頑張って生きてこれたよ。これからは一緒に頑張ってくれる?」と、欠点にお願いして、受け入れてもらうのがこのワークの締めくくり。
このワークをしても、欠点はなくならない。ただ、欠点という悪いものでなくなって、共に生きるものに変わる…というものです。
私はこの先も、人がたくさんいる場で話を上手に聞けない脳と、人がたくさんいる場で相手に届かない声と生きていくことになります。脳も声もどうあがいたって変えられるものじゃないから。
人と関わりたいと願うからこそ、それはとんでもなく寂しいことです。
でもそれがあるから、この先もきっと私は相手から求められなくても書き続けられるし、話し続けられるんだと思います。
講座で直接人と繋がったことによる寂しさの取得は、私にとって色んな意味で最後を締めくくるにふさわしい集大成でした。
欠点を許すワークが今回の日程にあったことも偶然ではなかったろうな。
まさか時間差で効いてくるとは。
改めて学びしかなかった。
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帰り際、一人の受講生さんにお礼を言われました。その人は、たまたまXで流れてきた私の漫画を読んだことで矢野先生に興味を持って今回の講座を受講した、という方。
私は最初の講座の日に駅で乗り継ぎに迷い、この電車に乗れば目的地に着けますか?と近くにいた人に声をかけました。それがなんと、その方だったのです。
会場に入ったら道を聞いた人がいて、しかも、隣の席で。それだけでまず、驚きました。
最初にペアを組んで演習しました。自己紹介で、私の漫画を読んだのがここに来るきっかけだったと伝えられて、さらにすげぇ縁だと思いました。
懇親会を1次会で抜けて別れるとき
「あなたがここに来るきっかけを与えてくれた。私はこの講座を受講して良かったと思ってます。そして、ここに私が来れたのは間違いなくあなたのおかげなんです。
あなたは本当にすごいことをやってるんですよ」と言われました。
あの漫画も、私の体験を多くの人に聞いて欲しいと思って描いただけ。でも、あの漫画をきっかけにして、矢野先生のカウンセリングを受けた人もいるそうです。(noteで漫画読んでうけてきたって感想書いてる人がいたし、受講生の中にもカウンセリング受けた方がいて、そのとき同席した人に"漫画をきっかけに来た"と言ってた人がいたりしたとのこと)
ずっと誰にも届かなかった声が誰かに届いたことを実感出来る瞬間が、私にとってはとてもうれしい。
寂しさと喜びは裏返しのところにあるような気がしています。
とんでもない寂しさの裏側にこそ、予想もつかないような喜びがあるものだと。
受講した方々とは住んでいる土地があまりに離れているのでまた会う機会があるかわかりませんが、御縁があるなら、またきっとどこかで。
ありがとうございました。
今回私が受講した、問題解決セラピスト養成講座は現在来季受講生募集中です。
私の発信を見て興味が沸いた方は、こちらを覗いてみてくださいね。
そしてもし受講したいと伝えてもらえたり、受講して得るものがあったと知れたなら、それは私にとってまた届いた喜びになるのです。