こころのもつれをときほぐす⑥
前回までは「子どもとの向き合いかた」について色々イメージした、というお話でした。
ほんと、子どものイメージはものすごいリアルでした。
さて今回は「お母さんは死なないよ」という"嘘"を子どもに向けてついたあとのお話です。
「この子にとって自分は必要だろうか」と思ったとき、あれこれ口出ししたくなる心理は自分にもあると思いました。
たった2日間離れて過ごしただけで、今何しているだろうかとかあれこれ考えてしまう。
ちゃんとごはん食べてる?
ずっとゲームばかりしてない?
さみしくてないたりしてない?
『私はあの子たちにとって必要な存在でいられているだろうか?』
ご飯を作ってあげなきゃ。
ちゃんとした大人になれるように導いてあげなきゃ。
いつでもそばにいてあげなきゃ。
目の前にいても寂しいと感じることがあるとしたら、それが過干渉に繋がってくるのかもしれない。
本来、必要とされることは、うれしいことです。
矢野先生は、感謝を伝えること、そして「困ったときは助けを求める」という宣言もまた声に出して伝えるよう言いました。
ああ、そうか、私はこれをすっかり忘れていた。
あれこれ口出しされるのは嫌だ。
私の人生は私のものだ。一度離れたならもう放っておいてほしい。
一度母の言うことに逆らって「悲しい」と返されたときから私は実家に対して足が遠のいていました。もう私と母は別の家族として生きているんだから、わざわざ干渉されたら面倒だと思ってしまった。
でも。
もし自分が我が子からそれをされたらどう感じるだろう。
子どもといつまでもロープで繋がっているわけにはいきません。
いつか手を離す瞬間はやってくる。
でも、繋がっていたものが無くなったからってそのまますべての縁が消えて無くなってしまうようなことがあれば、それはとても寂しいことです。
「もうあなたは立派な大人だから、お母さんはあなたの生き方や生活には一切干渉しないよ」と言える時期がもし来たとしても、それでも、もし本人が困ることがあったなら遠慮なく頼って欲しいと思うし、もし頼られたら嬉しいだろうと思います。
巣立ったら終わりではない。
いつまでも私にとって母は母であり、私は母にとっての娘です。
**
余談ではありますが、このカウンセリングを終えて地元に帰った数日後。
子ども抜きで行かなければいけない場所に行く用事が発生しました。
いつもはそういう用事が発生したときデイや学校に行く時間でどうにか都合つけていたのですが、母に「困ったときは頼ります」と言った自分のことばがふと脳内に聞こえた気がして。
そのときは自分の実家に子供達を預けに行きました。
しばらく遠のいていたときの、実家への嫌悪感のようなものが全然なくなっていて、むしろ「いい友達」のようにおしゃべりして帰ってきました。
親に対して、色々勝手に自分で思い込んで決めつけてしまっていたものがあったような気がするなぁ…と今になって思うのです。
でもその思い込みを今回、いくらか外せたんだとしたら、良かったなぁと思います。
「私、頼ってもいいって思ってなかったなぁ」「頼るってなんだか後ろめたい感じがあったけど、もしかして頼られることが嬉しいってこともあるかもしれないなぁ」「むしろ、まったく頼られなくなったら寂しいかもしれないなぁ」と思った瞬間、相談する前にぐるぐるしていた自分の中の戸惑いみたいなものがスカッといなくなった気がしました。
ほんと、心から
「スッキリしたーーーーー!!!」っていう感覚がありました。
いらん荷物を手放してすっかり身軽になった気分。
ただそのスッキリした思いの中にほんのり心残りが。
嘘を付けない自分にとって、ここがどうしても、いつまでも引っかかっていました。
脳内のイメージに対して嘘を付くことに、いったいどういう意味があったのか。それが私の心にいったいどんな効果をもたらすのか。
納得していないことばをわざわざ口に出したことは、私にとって今回のカウンセリング唯一のわだかまりでした。
「嘘をついてはいけない」
それは私がいつからか自分自身に課したひとつの枷です。
それに逆らうのは、自分としてはとても苦しい。だからこそ私はあまり嘘をつかないように生きてきました。
社交辞令も本気で苦手です。嫌なものは嫌と言うし、参加したくないものはバッサリ断ります。そのせいで「空気が読めない」と言われることも良くありました…が、嘘をつかないということは、決して悪いことではありません。
でも「子どもを安心させるための嘘をつく」ことが出来ないままでは、子どもの不安を和らげることは出来ないのです。
あれは「子どもを安心させるためになら、嘘をついてもいい」と自分の心に言い聞かせるためのことばでした。
とはいえ、このカウンセリング終了時点では
(でもやっぱ嘘は良くないでしょ…)と思っていましたし
(人はいつ死ぬかわかんないのは事実だもん)と腑に落ちない気持ちを拭いきれずにおりました。
何十年も背負ってきた枷は、そんな「そっか、じゃあ外そっと♪」みたいなノリで外すことはできません。
でも、帰りの飛行機。
夕方の便で機内は暗く、スマホのWi-Fiのつなぎ方も良くわからず。
行きに本を読みながら過ごせた時間は、ただぼんやりする時間になりました。その時間、カウンセリングのときのことを思いだしました。
そこで何となく思ったのです。
「優しい嘘」ってあるよな。と。
別に真実であるかどうかなんて関係ない。
そのとき「あなたを安心させるために言ってる」ということがわかる嘘。
「仕事と私どっちが大事なのよ!!」と喧嘩するカップル。
自分も若かりし頃、当時忙しかった夫にこのことばを吐いたことが確かありました(笑)言いながら(本当に言いたくなるんだ)って思いました。
そしてそのとき夫が返したのは「そんなの比べられることじゃない」ということばでした。確かそのことばで、更に悲しくなったんです。
「君のほうが大事だから仕事をやめるよ」と言って欲しかったわけじゃない。仕事が大事なことぐらい、私だってわかってます。仕事をやめてほしくて言ったわけではなかった。
内心では「実は仕事の方が大事」と思っていようが「比べようがない」と思っていようが…表面的にでも「君のことが何よりも大事だ」って、そのときの私は言ってほしかったんです。
そしたらきっとあの日の私はきっと安心出来たのに。
仮に、そのあと夫の仕事がさらに忙しくなって会う時間が取れなくなっても「でも私のことは大事に思ってくれてるはずだから」という思いは胸に残る…のかも、しれません。
口に出して言うことは、もしかしたら神秘的なちからも生み出すことがあるかもしれません。
「いつ死ぬかわからない」というのは確かに事実です。でもどうせなら死なないでいたい。そりゃそうだ。
子どもたちがある程度大きくなるまで一緒にいたいし、どんな大人になるのか見届けたい気持ちはあります。自分自身に生きたい願望があるなら「死なないよ」って言うぐらい別にいいじゃないか。
そして他の場面でも、いつでもどんなときも真実を伝えるのではなく、本人が傷つかないために、不安にならないためにつく嘘はあってもいいのだと、今はそう思えるようになったのです。
今度「お母さん死なない?」って聞かれたら「ハッハッハ、お母さんは不死身ですよ」と冗談まじりにでも言える自分でありたいな、と飛行機の窓を見ながらぼんやり思ったのでした。
到着ゲートから出て、ドラマのような再会を果たしました。
多分あの時間、空港内で一番大騒ぎしていたと思う。
そして何度も何度も「生きてて良かった」って言われました。
いちいち寂しさの表現が重い…と思いましたが、そう思ってもらえることは、とてもありがたいことです。
上の子はもう小学5年生ですが、今でも外を一緒に歩くと自然に手を繋いできます。5年生でまだ手を繋いでるなんて、この子はちゃんと私から離れて自立出来る日が来るんだろうか?と不安になることもあります。
でも、まぁ、そのうちきっと来るんでしょう。
むしろ手が空いて寂しい思いをする日が、いつか来るんでしょう。
縛られていると感じた繋がりは、お互いがそのロープを掴むかたちへと変わりました。もう縛らなくても大丈夫。
子どもたちがそのロープを離したいと思う日までは、その繋がりの温かさを感じておこうかなと思います。
サクッと書き残しておこうと思ったのに、想定してたよりめっちゃ長くなってしまったな…。
長くなりましたが最後まで読んで下さったかた、ありがとうございました。
サポートいただけたらそれも創作に活かしていきますので、活動の応援としてぽちりとお気軽にサポート頂けたら嬉しいです。