"出来ないひと"こそが"出来るひと"を救う
映画「ディア・ファミリー」を観てきた
CMで観て「ちょっと情緒揺さぶりに行きたい」という謎の動機で、この映画を観てきた。狙い通りめっちゃ揺さぶられた。
観たいなぁと思ったからといって、映画を観に行く時間を捻出することは案外難しい。平日の日中は子どもが学校に行く時間が不規則だからだ。
家に子どもがある程度まとまって不在になる時間がないと、まだ映画館にはなかなか行けない。
でも「行きたいなぁ」と言った数日後、土曜日に子どもふたり揃ってデイサービスに行ってくれて長い空き時間が出来た。最近は下の子の行きしぶりが強いのに、何故かこの日は何の違和感もなく出かけていった。
映画を観に行くお膳立てをしてくれたかのようだった。
夫が休みの日だったので、夫婦で映画を観に行く。
年に数回、たまにチャンスが訪れるデートである。
CMで観ていた限りで私が考えていたあらすじ
心臓病の娘のために医者でもない父親が娘のために心臓を作ろうとするけど、完成する前に娘が死んでしまって、娘が死んでしまっても尚そのまま人工心臓の研究を続け、最後には完成させた話。
これは何となく見ていた予告から読み取っていた情報から推測も含めてのあらすじ。
実際観てみたら違っていた。
色んな意味で、おおまかな雰囲気は合ってるんだけども。
年間数本しか映画を観ない私が、偶然この映画を観に行きたいと思ったことと、ここ最近私が読んでいる本の世界線がきれいに重なって驚いた。
こういうとき私は「運命の導き」のようなものを感じたりする。
そのとき感じたものを信じて進んだほうがいいことも、今までの経験則上ではわかっている。
ここ最近読んだ本
この本の中で紹介されていたのが下記の本。
『なぜ人と人は支え合うのか』は、障害がある人と関わる著者の視点から「障害を持つ人がこの世に生きる意味」について書かれた本。
私のような発達障害も含め、出来ないことがある人、誰かの助けを得なければ生きられない人が生きる意義のようなことについて触れられている。
『ケア労働を課す側と、課される側』という視点だけで見てしまえば、障害がある人は単純に邪魔者だ。その人を生かすために周りの人の手が使われるのであれば、その時間をもっと生産的なものに使ったほうがいい。
そういう思想が行き着いた末が相模原 障害者施設殺害事件なわけだが、「人の手を借りないと生きられない人間に生きる価値はない」と決めつけてしまう人は、ただ単純に「その人の価値を見いだせない人間だった」だけの話である。
どんな存在にも、命に必ず価値はある。きっと。
***
この本の引用でちょこちょこと出てくる海老原宏美さんの言葉が心に残り、海老原さんの本を購入。
海老原さんは生まれたときから障害を負っていて、恐らく3歳ぐらいまでしか生きられないだろうと言われていた。だが、海老原さんはその余命宣告をはるか上回る44年の人生を生きた。
海老原さんの持つ障害は『脊髄性筋萎縮症』というもの。
身体が少しずつ動かなくなっていき、最後には心臓も肺も動かなくなり、いつかは死んでしまう。
物心ついたときから「死」は海老原さんの近くにいつでも存在していた。
だからこそ海老原さんは生を大切にした。
その時間で自分が出来ることをした。
海老原さんは誰かに助けてもらわなければ生きられなかった。
階段を登るにも誰かに車椅子を持ち上げてもらわなければいけなかった。
何をするにも誰かの介助が必要だった。
海老原さんは出来ないことに対して、迷いなく、出来ない事を伝え助けてもらいながら生きた。
いつ死んでもおかしくないからこそ、今出来る事をひたすらにやって生きた。
誰かに助けてもらわなければ生きられない、そんな海老原さんの周りには「海老原さんを助けたい」「力になりたい」と願う人が沢山現れる。
海老原さんは自分を助ける経験をきっかけに学びを得る人を見た。
出来ないまま堂々と生きることこそが自分の価値だと、海老原さんは語る。
ものすごい古い本だけれどもこちらも読んだ。
乙武さんは命のリミットは特に伝えられてないとはいえ、四肢がない。
誰かに助けてもらわないと生きられない存在であったことは間違いなかった。
乙武さんは自分で出来ることは果敢にチャレンジもする人であり、でも、出来ないときは当たり前に周りの人の力を借りた。
周りも、喜んで助けていたとのことだった。
海老原さんと共通することは「助けを求めるときは堂々と出来ないことを伝える」ことだった。
障害者は「助けるチャンス」を振りまくひと
これらの本を読んでいく中で「人はだれかを助けたい」と思った時、自分のために生きる以上に力を出せるのではないかと思った。
だからこそ助けが必要だと自覚出来る存在は「助けて」をきちんと声に出せることが本当に大切なのだ。
「障害者」という括りに属する人間に対して「迷惑だ」と切り捨ててしまう人は多い。
だが、困っている誰かに手を差し伸べて、その人の願いに力を貸せたときの人の喜びというのは本当に大きい。
障害を持っている人は、周りに迷惑ばかりかけて自分なんて生きる価値がないのだと自分を卑下してしまうことが多いかもしれないが、そうではない。
迷惑ということばがいけない。
そもそも迷惑ではないのだ。
障害がある人は、周りの人間に「誰かを助けるチャンス」をふりまいて生きている。
そう考えられはしないだろうか。
誰かを助けたいと願ったとき、人はすごい力を発揮する
映画ディア・ファミリーの話に戻る。
(ネタバレするけれども、このお話に関してはネタバレの有無関係なしに感動出来ることは間違いないと思っている)
このお話は、心臓に生まれつき障害をもつ娘を持った父親が、余命20年の娘を救うために自ら人工心臓を作ろうとするところから物語が動き出す。
今まで単なる町工場で働いていた医療の素人である技術屋が、娘のために突然人工心臓を作ろうというのだ。
当然、最初は相手にされないのだが、少しずつその行動は人の心を動かしていく。父親は、人工心臓研究グループとタッグを組んで研究を進めていく。
国内で開発は無理だと言われていた人工心臓開発。
娘を助けたい一心で進めていく父親。
そして、ようやく本格的に心臓を作れるかもしれないというときになって、海外での人工心臓移植手術失敗のニュースが飛び込んでくる。
それによって、人工心臓そのものに対する医療界での疑問視の声が上がる。
何年もかけて進めてきた人工心臓の開発は頓挫。
研究グループは解体されてしまう。
そんなとき二十歳まで生きられるかどうか、と言われた娘の体調が悪化。
心臓の働きが悪いために他臓器の損傷が激しく、人工心臓を作れたとしても余命は恐らくほぼ変わらないことを告知される。
今まで娘を救うために重ねてきた努力は何だったのか、と父親は打ちひしがれるのだが、娘は言う。
「私の命はもう大丈夫だから、今までお父さんが私を救うために得た心臓の知識で、代わりに助けられる他の誰かを救ってほしい。
…それが、私の夢」
人工心臓の開発を諦めて、死が目の前に迫る娘のそばに寄り添うことを選ぼうかと迷っていた父親だったが、娘の夢のために、人工心臓の代わりにその知識を活かし、心臓病で苦しむ命を救おうと「心臓カテーテル」の開発に取り組むことを心に決める。
人工心臓を作るために必要だった技術や知識は、そのカテーテル開発に大いに生かされた。そしてついに国産では難しいとされていたカテーテルを開発。
カテーテルが実装されていくまでにもまた色々あるのだが、ついにある日そのカテーテルによって一つの命が救われ、それをきっかけに日本中に、そして海外にまでそれは広がっていく。
カテーテルで救われる命の報告がある度に、刻一刻と、命の灯火が消えていこうとする娘に父親は伝える。
「お前の夢が、またひとつの命を救ったよ」
それに対して娘は答える。
「私の家族は…私の誇り」
父親は、娘の命は救えなかった。
でも娘の命を救うために必死で手に入れたもの、繋がった人、知識が、最終的には17万人もの人を救った。
もう、物語序盤から泣きそうで。途中からはずっと泣いて、ちょっと怒りを抱いて、また泣いて。
すごくいい映画だった。
最後に、カテーテルを作ったことを表彰される式に出る父親が「私は娘を救えなかったから自分は表彰される価値なんてない」と言うシーンがある。
…そう、この父親は、娘のために動くのに、結局娘のことを救うことは出来ない。
だから「いい映画だった」と簡単に言ってしまっていいのかわからない。
でも「誰かを助けたい」という想いはこんなにも人を突き動かすんだということ。そして、たったひとりを救おうとしたその行動は、実はその周囲の多くの人も救っていくということ。
ペイ・フォワード
『恩送り』 ペイ・フォワード という言葉がある。
映画「ペイ・フォワード」も最近プライムビデオでレンタルして見た。
これもまた、今回のことと繋がっている。
たまたま読みたいと思った本が、観たいと思った映画が似たようなテーマになっていることに驚く。
***
ひとりの人が3人を助ける。
その3人を助けるとき「お返しはいらないから、あなたもまた3人を助けて下さい」と伝える。
そうすると、3人がそれぞれ3人を助けて次は9人が助けられる。
そしてその9人がそれぞれまた3人を助けて…ということを繰り返していったら誰かが誰かを助け続けて、世界は平和になるのではないか。
これはある少年が、社会の授業で「世界を変えるにはどうしたらいいか、それを考えて実行してみる」というテーマで出された課題を実行していくお話。
少年は3人を助けようとした。
しかし少年の目には、その3人すら助けられたようには見えなかった。
実験は失敗だったと思っていた。けれど、失敗ではなかった。
気づいたらその「恩送り」はアメリカ全土に広がっていた。
ところがその恩送りが多くの人に届いて、沢山の人を救ったということを知った日に、少年は不慮の事故で亡くなってしまう。
少年の死を憂いて「恩送り」に救われた人々が花を持って少年の家に灯火を持って集まった。
その数は、街を埋め尽くすほどの光となった。
***
この物語でも、最後に少年は死んでしまう。
でもこの少年がいたから、沢山の人が救われた。
ディア・ファミリーでも、父親は娘の命を救えなかった。
でも娘がいたから父親は人工心臓の開発をしようと動き出せた。
人工心臓が作れなくても、最終的に何万人もの命を救った。
ひとつの命を救えなかった。
その視点から見たら、どちらの作品もバッドエンドだ。
でも、ひとつの命のための行動が多くの命を救うのだとしたら、それはきっとバッドエンドではない。
弱者を救おうとする行動こそが多くの人を救う
「なぜ人と人は支え合うのか」の中にあったひとつのエピソードで、東京の駅にエレベーターがついたときの話があった。
車椅子ユーザーが電車を利用したい時『補助の人がいなければ乗れないのが困るから全ての駅にエレベーターをつけてくれ』という運動が起こった。
その当時は「車椅子のユーザーのためだけに全部の役にエレベーターなんてつけられないよ」と突っぱねられたけれども、そこで障害を持つ人々はくじけなかった。
運動を続けた結果、今は全ての駅にエレベーターが設置されている。
そしてそのエレベーターは今や、車椅子ユーザーではない人々をも救っている。
たったひとりの娘を救おうとした父親の行動が、いつしか多くの人の命を救ったように。人が行動する時、助けたいと願うのはきっと弱きたったひとりの存在だったりするのだろう。
でもその「誰かを助けたい」という想いは底しれぬパワーがあると思う。
だからこそ、助けが必要な人は「助けてくれ」というメッセージをためらうことなく発信していい。
誰かがそれを助けたいと思ったとき、そのエネルギーは人ひとりがただ生きているときよりずっと大きい。
子どもを思う親心
そもそも私自身、子どもに発達障害があるとわかってから、娘と同じような境遇の人への理解を深めたいという思いから発信活動を始めている。
映画館を貸し切ったり、アートホールを貸し切ったり、子どもたちに居場所を作ろうとする活動もした。それも、そのままでいたら社会的な居場所を失うかもしれない、本人が望む経験をさせてあげたいと思わせてくれた娘のためだった。
娘が学校に行けなくなったときは、娘のために出来ることを必死で探したし、いろんなことを試したし、調べたりもした。
苦手なこともやった。相談にもいった。
娘の話もいっぱい聞いた。
出来ないことがある娘がいたからこそやれたことが、いっぱいある。
今もなお、何かをやらなければと自分を突き動かす根っこにあるのは、子どもたちの未来のためという思いが強い。
映画館を貸し切ったとき、参加した親御さんから「こういうイベントが無かったら、息子と映画を観に行こうとは思えなかったと思う。ふたりで映画を見られて良かった。ありがとう」とお礼をされた。
発達障害に関わる漫画を描いて発信したことで、同じような境遇にある人に感謝された。
不登校について教えて欲しいと発信したら沢山の情報が集まったことで、そのことにも感謝された。
今私は、トラウマケアのことを学ぼうとしているのだけど、それは親にトラウマがあると子どもにそれが伝わってしまうことを知ったからだ。多分子育てをしていなかったら、トラウマケアなんてしようとも思わなかったろう。
そのことをVoicyで発信したら、やっぱりそこでも感謝された。
自分がやりたいと願うことは、結局子どものことに繋がっている。
人は、誰かのために行動する時、自分ひとりでは決して出せない力を出すことが出来るのだと思う。
そして、自分が娘のために動いたことは、知らず知らず多くの人を救っている。そして誰かを救ったという結果に、誰よりも私自身が救われている。
ディア・ファミリーでも、父親がそうやって救われるシーンがある。
娘の話
長女は、優しい子だ。
でも「誰かのためにがんばる」というモチベーションを持って、なにかに取り組むということは今まであまりなかった。
今、長女が通っているクラスは超少人数のクラス。
その中のひとりに人が多いところに決して行けない子がいる。
学校に来る時も裏口からひっそりと、トイレに行くときも人目につかないようにこっそりと行くような子。
その子が、あるとき「次の行事に出たい」と言い出したという。
「長女とか、クラスの友達とか、先生がいればきっとやれると思う」と。
人が多いところに決して出ることが出来なかったその子が「やりたい」と言ったことで、長女は「私、あの子のために今度の行事は絶対休めない」と言い出した。
長女自身も、行事というのは元々あまり得意な方ではない。
でも長女は言う。
「もし私が楽しめなくても、あの子が楽しめるならいいんだよ」
長女は朝から終わりまで学校に行くと疲れ果ててしまう。
だから最近は3時間目から5時間目まで、など、時短で学校に行っている。
でも行事は朝から最後までびっちりだ。
そういった意味で長女にとっても行事は体力的な負担が大きかった。
でも「人前に出られないあの子が、自分がいることで行けると思えるなら私は行かないといけない」と言って、朝から学校へ行った。
そしてその日の行事は、全員が楽しめたという。
人前に出られなかったお友達も、沢山の人が同乗するバスに乗り、行事を過ごし、みんなとお弁当を食べて楽しんで帰ってきたという。
私はその話を聞いてものすごく感動した。
長女が人のために頑張れたことにも感動したし、長女のおかげで友達が頑張れたことにも感動した。長女自身も、すごく嬉しそうだった。
長女はエネルギーを相当消耗したらしく、翌日学校でも眠ってしまったそうだ。家に帰ってきたあとも食事をしたらすぐ眠ってしまった。
普段は夜寝付けないと言ってなかなか寝ない子なのに、その日は泥のように眠り、朝まで全く起きなかった。
普段の長女なら頑張れなかったことが、誰かのためにならできたこと。
やっぱり誰かのために頑張ることって人にエネルギーを与えるんだと思う。
そして自分が誰かを救ったという事実は、助けた側の人間も救うんだと思う。
友達が「ひとりなら出来ないけど、信じられる友達がいれば出来る」と言ってくれたことで、長女は頑張れた。
出来ないことは出来ないと言う大切さ
出来ないことは悪いことではない。
出来ないから助けて欲しい、とハッキリ伝えてもらえるほうが、言われた側は案外その為に頑張ろうと思えるものなのかもしれない。
普段、終日学校へ行くことが難しく、かつ行事は渋りがちな長女が、クラスメイトひとりのためにがんばれたことと同じように。
あることが出来ないひとにも、誰かのためにならできることがある。
だからこそ「出来ないことは出来ないと言う」ことはとても重要だ。
だから"出来ないひと"は何も迷惑と思うことはない。
堂々と「出来ないから助けて下さい」と言ったらいい。
出来ないことこそが、誰かにとっての価値であることも、きっとある。
そして"出来ないひと”を、"出来るひと"が救うとき。
本当に救われているのは、実は"出来るひと"の方なのだ。
私が娘や同じ境遇で悩んでいる人のために頑張っていると思っていることは、自分自身を救うためにやっていることなんだろうな…と、ここ最近を通して読んだ本や映画を通して思ったりしている。
だから私はこのまま誰かのために頑張り続けようと思う。
Voicyでも2回に分けて話しています。
娘と友達のエピソードについて話した回
ディアファミリーのことと、今の自分がやっていることについて話した回
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