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その手を差し伸べるか、引くか

先日長女が、ひとりでゴーカートに乗った。
今までは二人乗りのゴーカートに親のどちらかが一緒に乗っていた。

先日行ったところで身長制限をクリアしていたので

「一人で乗ってみる?」と何気に聞いた。

「一人でも二人でもどっちでも大丈夫だよ」と長女が返した。

「じゃあ、自分で全部操作できる方が楽しいだろうから一人で乗ってみな」と、深く考えずに一人乗りのチケットを買った。

しかし乗る前は自信満々だった長女、いざ乗り込んだら不安になったようで固まってしまったのだった。




説明を聞いている間の長女の不安そうな顔。

「不安なんだったら、やっぱり二人乗りにしようか」

その言葉が喉元まで来ていた(いや喉から出てたかも)

でもそんな私の不安の声をかき消すように、説明してくれたおじさんが大きな声で「大丈夫だ、行ってきな」と長女の背中を押した。

あまりに頼りなく走り出した長女のゴーカート。
長い時間をかけ、低速を保ったままそれはゴールへと戻ってきた。

への字口に口を結んでガチガチになっていた長女が、私の姿を確認した瞬間顔を緩ませて笑顔に変わったとき「ひとりでやれたよ」と自信満々に言われたような気がした。

今までの私なら

「無理しなくていいよ」と手を差し伸べていたように思う。

でも「いいからやってみな」と突き放したこともまた、あったと思う。

手を差し伸べて良かったと思う日も、突き放して良かったと思う日もあった。
手を差し伸べた事が失敗に思えた日も、突き放したことで本人が傷ついた日もあった。

どちらが本人にとってよりよい結果になるかなんて私にはわからない。

今回、長女に差し伸べかけた手を、私は引いた。

戻ってきたときの自信満々の顔を見たとき、あの手を引いて良かったと思った。もちろん、手助けをしても自信は得られたと思うけど「不安でもやってみたら出来た」というあの経験は、最初から最後まで一人でやったから得られたもののように感じている。

***

次女は最近、学校に行けていない。
たまに気まぐれに登校するけど、行っても週に数時間程度。

行きたくない理由をそれとなく聞いてみると

「自分でもわからない気持ちってあるよね」と返された。

まったくだ。
7歳でそれを知っていることに感心した。

長女は最近学校に楽しく行けているけれど、ここに至るまでは長かった。
毎日「行きたくない」の気持ちと格闘する日々。

「そんなに行きたくないなら行かなくていいよ」と優しく出来る日もあった。でも、そうかと思えば「たまには行きなさい」と言いたくなる日もあった。

私は「多くの子が学校に行っている中で、我が子だけが学校に行っていない経験」が、沢山の大切な経験を失わせるような気がして不安だった。
その不安に押し負けたときは「行きなさい」と言っていたと思う。

でも、行きしぶりに何度も対応していく中で「無理矢理行く経験」が与える損失も考えるようになった。嫌だと拒んだ場所に強制的に連れて行かれる記憶とセットなら、どんな行事であれ楽しいはずがない。

そう思えたとき「行かなくていいよ」と言えた。

どちらかと言えば人は「経験しないことに対する損失」に対して、とても敏感なように思う。

私も座右の銘は「行動せずに後悔するなら、行動して後悔したい」である。
あとから"やっておけば良かった"と悔やみたくない。

だからこそ「とりあえずやってみたら?」と言ってしまう。

でもこの2つの後悔。
「行動したうえで後悔する」方がいいと言われがちだけれど、本当にそうなのだろうか。

長女がどうしても「行きたくない」と行ったものに無理矢理行かせて「やっぱり楽しくなかった。疲れただけだった。行かなければよかった」と悲しそうにしていたときを思い起こすと「行動した後悔」だってそれなりにしんどいよなぁと思うのだ。

…と、こうやって文章にして考えを整理していて思った。


長女の「行動した後悔」は「自分で決めた行動」ではない。

長女が「行かなければ良かった」とあとからぼやいたことは、大抵が周りの大人が背中を押したものだと気づく。
これは一種の「行動しなかった後悔」なんだと思う。

『もっと強く拒めばこんなことにはならなかったのに』という後悔だ。

そういう意味で、やっぱり「行動しなかった後悔」はしんどい。

最近の長女がどこかスッキリしているのは、やらないと決めたことは周りの大人がなんと言おうと断固としてやらないと断言するところにあるのかもしれない。

でも、ここに至るまで何年もかかった。
周りが「やってみたら」と言ってくることに、断固としてやらないことを宣言するのも、また勇気がいる。

大人にとっても周りの人の言葉は強いが、子どもにとってはさらに大人の言葉が持つ圧力は強い。そこにはやはり、絶対的な力の差があるからだ。

「目上の人には敬語を使いなさい」当たり前に言われる言葉。
学校において、先生は絶対的に子どもの目上の存在である。
(とはいえ、うちの子はあまり敬語を使わないが…)

子どもと大人は、大人同士よりも、対等ではない。

目上の存在のことばは強い。
まだ幼いうちほど、それに抗うのは難しい。

***

次女はほとんど学校に行っていない。
今度発表会があるのだけど、発表会には出る気はないと家では言っていた。
なのに学校では少し出る気配を醸し出したりしているようだった。

出る気がないと言ってたのに、その気になったのかな?と思っていたのだけど、多分そうではない。
学校という絶対的目上の大人しかいない場で、次女は「出たくない」ということばを言えなかったのではないか。
そう思ったのは今日あった出来事からである。

***

長女は発表会に参加すると言っていた。
今日、それの児童公開があるとのことで、次女と私でそれを観に行った。
(本当は保護者公開は別日なのだが、次女が一人では観られないというので)

次女は頑張っている姉を嬉しそうに眺め、家で一緒に練習していた手話を一緒になって踊っていた。
それだけで十分楽しそうだった。

観覧している途中で、担任の先生が次女のところにやってきた。
そして次女に聞いた。

「もし、発表会に出るなら、何の役をやりたい?」

1年生の劇の話だ。

ずっとまともに登校していないのに、練習にも出られていないのに「役」について考えるなんて無理に決まっていると思っていた。
次女はそもそもどんな内容で、どんな配役があるかすら把握していないのではないだろうか。

「本人は出ないって言ってるので、それを聞くのはやめてください」と言おうか迷った。でも、本人に出たい意志が少しでもあるのなら、私がここでそれを言うべきではない。
過保護な親と思われるだろうかという保身もあった。

本当に出たくないなら本人が自分の口で「私は出るつもりはない」と言うだろう。次女は結構、自己主張は出来るタイプだ。

しばらく黙ったあと、次女は、ひとつの役名を言った。
あれ?出るつもりあるのか?

担任の先生が希望した役を確認して、そこから去ったあと次女は小声でぽつりと言った。

「私は出るつもりないのに、なんであんなこと聞くんだろ…」

なんだ。やっぱり出るつもりなかったんだ。

「…じゃあ"出るつもりないです"って堂々と言えばよかったのに。
別に出ないのは悪いことじゃないんだよ」

そう、私が言うと

「そんなこと、言えるはずないでしょ」と次女は言った。

"言えるはずがない"

…そうか、そうなんだ。

長女のときも毎年そうだった。
運動会、本人が出たくないと言ったときも「その場にいることだけでも」とゴールテープを持つ係として参加することを提案されたりしていた。

そのときも長女は家では「やりたくない」と言っていた。
でも学校では意欲的な雰囲気で取り組んでいるとの話だった。
どちらが本当なのか、私にはそのとき判断出来なかった。

本人は本人なりに当日頑張っていたし、私もその頑張りを見て感動はした。
でも本人はあとから「やっぱり行きたくなかった」とぼやいた。

何年かたった今でも「あのときゴールテープを持っていたら手を離すタイミングがズレて、テープに巻き込まれて転んで、痛かった」みたいなことを話すことがある。

その翌年から、長女は運動会に完全非出場を貫いている。
『拒まなかった後悔』を、もうしたくなかったのだろう。

出場の意志がないことを伝えても「でもここまで練習して出来るようになったなら本番に少しぐらい出てみたら」という声かけは何度かされたようだった。

大人はやっぱり「経験していないことによる損失」を考えがちだ。

でも「経験したことによる損失」だって大きいことも忘れてはいけない。

たしかに「挑戦もせずに拒むのはもったいない」と思う気持ちはわかる。
私も未だその想いを子どもに押し付けることは多々ある。
だって、実際やらせてみたら「楽しかった」に変わることもあるのだ。
どうせならそれを味わって欲しいとも思ってしまう。

ただ、トラウマレベルに至る記憶は「経験しなかったことによる損失」ではなく「経験したことによる損失」である。
そこに行かなければ、参加しなければそんな記憶が残ることはない。

今日、Xでこんな投稿を見て、運動会を完全に非出場と決めている長女にはこういう記憶が残ることはないのだろうなと何となく思った。

「運動会に参加しなかった記憶」をなくすために参加させた行事で「しんどかったあの日の記憶」が残る可能性もまた、大人はよく考えなければならないのだと思う。

***

担任の先生に「劇にもし出るとしたら何の役で出るのか」と問われて複雑な顔をしている次女を見たとき、手を差し伸べるか引っ込めるか、私は相当に迷った。

「本人は出ないと言ってるので、それを確認する必要はないです」と、私が強く言えていたら、次女は心強かったろうか。

あの瞬間、手を引っ込める選択をしたことを、私はしこたま後悔している。

「やらなかった後悔」である。

*

でも、ゴーカートに乗った長女に手を差し伸べなかったことで得られた自信もまたかけがえのないものだった。

あのとき多分手を差し伸べたとしても「やった後悔」はなかったと思う。
二人乗りのゴーカートに乗ったとしても、それはそれで本人が楽しい経験をすることは出来ただろうから。
でも手を差し伸べていたら「不安な中、ひとりでゴーカートに乗った」という達成感を、あの日の長女はきっと得ることはなかった。

*

結局のところ、手を差し伸べるのがいいのか、引くのがいいのかなんて、実際ときが経ってからしかわかりっこない。

その気持を整理したくてこんな長々と文字にしたけれど、結論としては…
本人の意志を日頃からよく聞いておこうということだろうか。

長女は、ゴーカートに乗ることを「自分で」決めた。
それが出来るか出来ないか不安そうにしていたとしても、そこに助け舟は求められないなら出す必要はない。結果として、成功してそれは自信につながった。発表会も、今回は周りに促されたとかではなく、自分で出ることを決めている。

次女は、発表会に出ないことを「自分で」決めていた。
でも大人はギリギリまで「もしかしたら出るかも」の期待を持ってしまう。
出ることによって得られる経験を考えてしまう。

でも本人は出ないことを決めていた。
ただ、それを伝えられなかった。

それがわかっていたのだから、私は手を差し伸べても良かった。

そういえば運動会も、一応出てみたらと声掛けをして、当日グラウンドの中に入れず隅っこで参加したことを思い出す。
そうまでしてあの場に行く必要はあったのだろうかと思うのだ。

多分、現状、無理して発表会に参加することには、次女にとってのメリットはない。むしろデメリットがある。

『「参加しない」とどんなに伝えても、大人は自分の気持ちをわかってくれない』という記憶だ。

堂々と出ない選択をすることの背中を押すのが、多分今の私に出来ること。

今度また本人がそれを上手に言葉にできないときには、今度こそ手を差し伸べようと思う。

本人が自分のことばを自分で言う力をなくすような、過保護にはならない程度の助け舟を。

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水谷アス
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