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『自分を好きになる』前に必要なこと

「愛されたいならまず自分を好きになりましょう」ってよく言いますよね。

でも「誰にも愛されない」と感じている人が、自分を好きになるということはすごく難しいことだと思います。

「愛されたいなら他者を愛しなさい」というのも、愛され方がわからない人にはそもそも愛し方がわかりません。

『誰にも愛されない自分なんて愛せない。
ましてや他者を愛す余裕なんてない』

(むしろ「すべてが憎い」ぐらいの闇落ちぶり)

私は若い頃ずっと、この負のループにハマっていました。
でもいつからか抜け出していました。
それが一体いつだったかは思い出せませんでした。

それが今回通っている『問題解決セラピスト養成講座』の矢野惣一先生の、愛の循環についてのお話を聞いてストンと胸に落ちました。



人に愛を渡すときは、自分を満たして自分の中に収まりきらなくなってあふれた分を人に渡す。

そのためにまず「受け取る」ことが必要だったんですが、私は基本、他者からの愛をあまり受け取らずに来てしまったんですね。

何となく昭和生まれには多いような気がします。
子どもを褒められることがあっても「いやいやうちの子なんて駄目ですよ」と謙遜してしまう親って多かった気がするので。

しかも私は兄弟の真ん中っ子で、兄は手がかかったと聞いています。
そして年子の弟は小さい頃偏食もひどく痩せ気味で、ちょっと身体が弱かった。
健康優良児で比較的真面目だった私は、親からいっぱい構ってもらえた記憶があまりありません。受け取る機会が少なかったんではないかと思います。

それだけではありません。
「受け取る」ことは、別に家族や恋人に限った話じゃないのです。
日々出会う色んな人からのほんの些細なあたたかい気持ちとか、そういうものも、全部です。
でも、そういうのも全部私は「いやいや私なんて」と受け取ることを拒否してきました。とにかく受け取れません。何でかわかんないけど。

若い頃の自分は、他人から優しくされても、褒められても、なんだかそれが偽物のように感じられてしまってどうしても受け取れなかった。

何も受け取っていないから、人にあげられるものを持っていません。
見様見真似で自分の中から絞り出した『愛っぽいナニカ』を周りの人に渡してみますが、迷惑がられます。
人に迷惑がられるような『愛っぽいナニカ』を抱えて、そんな自分を好きになろうとしても出来ませんでした。

そんな私が『受け取る』を出来るようになったのは、子どもからの『好き!』を強制的に受け取ることで受け取り方を覚えたからだったのかもしれないなぁ…と、思ったのです。

子どもの『おかあさん好き!』は強烈です。
本当に曇りなき目で、毎日毎日飽きもせず好きを伝えてきます。

『ありがとう、お母さんもあなたのことが大好きだよ』
そんなことば、当時の私は恥ずかしくて言えません。
取って付けたような、嘘くさいセリフのように感じます。
だから「好き」と言われても私は「そっかそっか、わかったよ」みたいな感じでそっけなくしていました。

長女ハナが希死念慮を持って自分の頭を殴ったり壁に打ち付けたりするようになったのは5歳の頃でした。

「私は誰からも必要とされていない」
「出来ないことばかりのこんな自分なんていないほうがいい」

その様子は本当に毎晩鬼気迫っていて、気を抜いたら家の外に飛び出して走る車に向かって飛び込むとか、そういうことをしでかしそうなほどでした。

「私はあなたのことが必要だよ」
「お母さんはどんなハナでも、いつでも大好きだよ」

毎晩夜になると気持ちが昂って泣き叫んでいたハナに私は繰り返し伝え続けました。

子どもから言われる「好き」も、今までは面倒くさそうな対応になっていたところもあったけど、こうなってからは、ほんと必死で受け取っていたと思います。

今思えば、自分が相手に好意を伝えてもそれを受け止めてもらえないというのはどんなにか寂しかったろうかと思うのです。

別に私は受け取る気がなかったわけではありません。
好きと言われたからって「ありがとう私も好きだよおお」っていちいち伝えなくても「何となくわかるでしょ、そんなもの」と、思っていたんです。

これも昭和育ちあるあるのような気がします。「言わなくても好きという気持ちは相手に伝わる。わざわざ言うなんて粋じゃない」みたいな感じ。

でもやっぱり受け取った時には「受け取りました」の言葉とか態度が必要だったんです。それが「ありがとう」の言葉だとか、抱きしめるという行為なんでしょうね。

「大好きだよ」ということ。
「好き」と言われたことに「ありがとう」と返すこと。

最初は暴れる我が子をなだめるための演技に近いような感覚でした。

でも、それを日々やっているうちに、「好き」と言い合うことが当たり前になっていきました。そうすると、日々が少しずつ優しく感じられるようになっていったんです。

いやいや…とんでもない荒療治です。
でも私は、おかげで「受け取る」事ができるようになりました。

お店に行って「お子さんかわいいね」とよその人に言われても「あ、どうも…」と消極的にしか受け止められなかった私ですが「ありがとうございます」と笑顔を返せるようになりました。

そうやって人の気持ちを素直に受け止めて笑顔になれる自分が案外悪くないと思えるようになっている自分もいました。
多分このあたりでようやく、私は「自分の中で愛を増幅する」ことが出来るようになっていたような気がします。

楽しそうにしている人の近くにいると、今では一緒に楽しい気持ちになれます(必ずではないけれど)。昔は、楽しそうな人の近くにいると「この人はこんなに楽しそうなのに私は…」と逆に落ち込んでいたんですよね。

私の夫は愛の循環がとっても上手くいっている人だと思います。
恋人だった時代、一緒に旅行に行って手を繋いでいたりすると「仲良しだね」とお店の人に言われたりします。
そうすると、私はなんだか嫌な気持ちになりました。
冷やかされているのかと思ってしまうのです。

恥ずかしい気持ちになって繋いでいた手を離そうとすると、夫は「よその人から見ても仲良しに見えるなんて嬉しいねぇ」と、その手を繋ぎ直してニコニコしているような人でした。なんでこんなに素直に人の言葉をいい感じに受け止められるんだろうと、私はずっと夫を羨んでいました。

「受け取る」が上手な人は「与える」ことも上手なようです。
だからなのか夫は「好き」という言葉も恥ずかしげもなくいう人です。
あとほんと「自分大好き」です。
本当にひとりで循環してます。すごい。

私は受け取るのも下手で与えるのも下手だったので、「好き」と言われても恥ずかしくて上手に受け取れないし、自分からも上手に返せませんでした。

一緒にいるのが楽しかったので結婚した、という感じです。

私の「受けとり」を上手にしてくれたのは子どもでした。
かなりゴリ押しでしたが、多分あれぐらいやらないと私は出来るようにならなかったかもしれません…
でも、一度上手になると他の人からのものも少しずつ受け取れるようになりますね。

まだ人の親切をいつでも全力で喜べる夫レベルには達していませんが、昔から見れば、かなり循環出来るようになったような気がしています。

当時、希死念慮があったハナも今はすっかり落ち着きました。
多分半年ぐらいかかったかな…。

「ハナちゃんがいると、何故か普段暴れたりするような子が穏やかになる」と、以前学校の先生やデイの人に言われたことがありました。

今思えばこれって、その時にはもうハナが周りの子の愛を受け止めて自分のぶんを渡す、人と人の間に循環のきっかけをつくることが出来る子になっていたからなのかもしれないな…と思ったりするのです。

たった一人そういう人がいるだけで空気が穏やかになる、そういう存在というのは愛の循環を回してくれる人なんですね。

私は「受け取り」が下手で循環を上手く回せていなかったタイプでしたが、受け取れるけど渡せないタイプ、自分の中で増やせないタイプもいるようです。

そういえば「give(与える)」が大切!っていう風潮が数年前すごく流行って、「みんなギバーになろうぜ!!」みたいにキラキラしてる人が増えたことがあったけど、人に対して何かを与えているだけで停滞している感じの人っていたなぁと思っています。
多分、与えることにだけ特化しても駄目なんでしょうね。

最近の自己啓発本は「まずは自分を好きになろう!」が多い気がするけど、これもやっぱり、それだけじゃ駄目なんでしょうね。

受け取る→自分を好きになる→溢れた分を与える→受け取る

このループが広がるとどんどん自分だけでなく自分の周囲もみんな幸せになっていくんだろうな。そんな世界が広がったら素敵ですね。



このお話は、矢野先生の本に書いてあるので、よろしければ読んでみてくださいね。


Voicyでも喋ってます。
マナーや勉強とか、そんなこと以上に「愛を渡す喜び」と「愛の受け取り方」を教えることが、育児する上で親が一番大事にしなきゃいけない事なのかもしれないな…と、最近よく思っています。



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水谷アス
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