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おばちゃんが『今日も明日も負け犬。』を見て泣いた

どうもこんにちは水谷アスです。

久々?のVoicy文字起こしでも、マンガを含めてもいないテキスト記事です。

週末、表題の映画を見てきたのです。

この映画を知っている方はいらっしゃるだろうか。私は知ったのはほんの数週間前で、もっと早く知っていたかった。そしてDVDとか小説を買いたかった。(今はもう販売されていないのである)

参考までに公式サイトを置いておくよ。

この映像作品は、なんと、高校生だけの手で作られた映画なんである。

高校生が撮った映画なんてティックトックのウェーイって動画に毛が生えたようなもんなんだろ?なんて思う人もいるかもしれんけど、ガチの映像作品で。
途中途中、これが高校生監督の手で作られているという事実を忘れそうになったぐらい素晴らしい作品でした。
構図とかカットの入れ方とか。下手なドラマよりずっと良かった。

どんな内容の映画かと言うと…
「起立性調節障害」の当事者である西山夏実さんが、自分自身が苦しい思いをした中学校生活を、高校生になった自分の手で映像化した、というもの。

起立性調節障害というのは、すごく雑に言うと午前中は活動することが困難な障害。朝起きられない。けど、昼過ぎぐらいからは普通に活動出来る。

だから外に出て歩いているところを見たり、日常を過ごしているところを見ると何事もないようにしか見えない。だからこそ、ただ「朝起きられない」なんて単なる甘えなんじゃないのかと言われてしまうのだという。

私も、娘が不登校になったときに、この単語を幾度となく目にした。
不登校の原因になるひとつに、この障害があることもある。
だって学校って朝始まって昼過ぎに終わるからね。昼過ぎからようやく一般の人並みに動ける人にとってみれば全くその生活サイクルにはついていけないのだ。不登校になっても仕方がない。

ウチの娘の不登校の原因はこれではなかったけれども、不登校の起因としてなんとなく読み物を読んだりすることはあって。
それでも、私の中の認識は「朝弱くて、夜更かししてしまう」程度のものだった。睡眠時間が一般的な人とズレている”だけ”なんだろう、と。

でもそんな簡単なものではないことが、この映画を見て良くわかった。
「甘え」だと言われてしまう苦しみも「もっと頑張れ」と言われてしまう苦しみも痛いほど伝わってきた。

私自身、発達障害というものを抱えて40年以上生きてきたけど、発達障害も似たようなものだ。
日常生活のほんの些細な”みんなが出来て当たり前のもの”が出来ない。
出来ないことを責められて、出来るようになろうともがいて出来るようになんてならない。出来ないから障害なのだ。
でも、それが周りからなかなか理解されない。

障害であることを伝えると「ああ、それね」と嘲笑される。

一般的多数が出来ることが出来ないことは単なる甘え。

息をすることのように当たり前のこと。
普通にご飯を食べること。
普通に人と話すこと。

努力をしなくても大抵の人がみんな出来ること、というのは沢山ある。

それが出来ない世界線を想像することは、出来る人からはとても難しい。

「朝起きて、夜眠る」こと。

みんなが出来て当たり前のこと。

『何でそんな簡単なことが出来ないの?』

私もその言葉を言われ続けてきた。

私は、朝起きて夜眠る事はできる。
だから、その苦しみはわからないけれど、その言葉の鋭さはよく知っている。

何で出来ないの?
障害を知るまでは、私はそれをいつも自分に問うていた。

答えを知っているなら、すでに、とっくにその正解に向けて頑張っていたはずだ。出来ること、出来ないこと、必ずしも言語化出来ることばかりではないのに。みんな答えを求める。

「障害がある」ことは答えのひとつかもしれない。
私自身は診断が付いたことで随分と楽になった。

出来ないことには、理由があったのだと。

でもそれを伝えたって「当たり前のことが当たり前に出来る」一般的多数者は大抵、理解しようとしない。

ましてやこの監督は、当時。中学生だった。
子どもの言うことを聞いてくれる大人がいなかった。

伝わらない無力感。孤独感。
それが痛いほど伝わってくる映画だった。


私は、子どもが学校に行き渋るようになってから幾度となく『今の学校教育の当たり前』に対して疑問を感じることが多い。

絶対的多数が当てはまる基準に子ども全てを当てはめて、当てはまらない存在だったら障害者になる。発達障害者も、起立性調節障害の障害者もそう。

障害者とは、その人本人ではなく『社会側に障害がある』存在である。
一般的な人たちの道が、平坦で、舗装されて、何も置いていないとしたら。
障害者の道は、ハードルがあったり、穴が開いていたり、凄い坂道だったりする。

それなのに学校という場所は大抵、同じペースで進むことを求め、同じゴールを目指させようとする。

例えば学校という場所が、朝登校しなければいけない場所でなかったら。
起立性調節障害を持つ子どもは障害者にならない。

起立性調節障害を持ち、中学不登校だった友人の息子さんがいる。
彼は、高校で夜間定時制高校に入学した。話し方もとても聡明だし、とてもしっかりした子だ。
中学には行けなかったけれど、高校で欠席することはない。
夜間定時ならば全く問題なく通えるからだ。

私の長女は自閉症スペクトラムの診断がついていて、人の目や大きな声や集団が怖い。でも人と関わることは好きだし、学ぶことに興味もある。絵を描くのも好きだし、工作に没頭することもある。
苦手な環境にいないとき、彼女に障害というものを感じることはない。

結局障害というのは、環境が作り出すものである。

私自身も自閉症スペクトラムの診断がついていて、社会人として働いている頃は何もかも上手く行かないことだらけだった。
でも、フリーランスになってしまってからは、あの頃の生きづらさは一体どこへ行ったんだろうと思えるほどだし、むしろ日々、発信者としてそれなり
の成長も出来ている。もっと若いうちにこの環境に入れていたらもっと楽に生きられていただろうにと思う。

生きづらい環境という面で学校という場所はそれが特に顕著だ。
絶対的多数が作り出す「当たり前」に合わせた環境に合わない子どもはドロップアウトするしかない。学校は、社会よりあまりに選択肢が少ない。

ドロップアウトした子どもは、他のみんなと同じに出来ないことに劣等感を感じる仕組みが出来ている。でも別に、みんなと同じに出来なければいけないなんてことはないのだ。

むしろ社会に出てからだったらみんなと同じということのほうがよっぽどつまらない存在になる。なのに、社会に出るまでの学校という場所は、横並びでみんなと同じが正しいかのような空間になっている。

それは誰が作り出しているというものではなく、集団が、そこはかとなくその空気を作り出している。

集団から外れてはいけないという空気を。

もっと外れていい。

みんなが生きたい道を、生きたいように生きていいんだ。
生きたいように生きられる世界がいい。

なのに、どうして大人は子どもが歩く道を決めてしまおうとするのか。

この映画に込められたメッセージは、多分、当事者として、同じ苦しみを持つ当事者に「君だけじゃないよ」を届けたいというものだったと思う。

私は起立性調節障害の当事者ではないし、身内にもまだその障害を持つ人間はいないから、その視点でこの作品を見ることはない。

ただただ、大人が、子どもが苦しんでいるのに、それを理解せずに絶望の底に押し込めている大人が、なんとみっともなくてみじめなんだろうと、そういう気持ちにさせられる作品だった。
この作品に出てくる「大人」は、ほとんどが無理解だ。

10代の若者が力を合わせて生きていく様はとても美しかったが、それに反比例するように、その若者を助けようとせず、むしろ行く道を阻もうとする大人はとても醜かった。

世界がこんな大人ばかりでごめん、と、私はただひたすらそれを思い、泣きながら映画を見ていた。

すごくいい映画だった。もっと多くの人に見てもらえるといいな。

この映画を何故見ることになったかといえば、車で数時間の土地でこの映画の上映会が行われるからだった。

その上映会を主催していたのは、中学生の男の子だった。
起立性調節障害を持ち、この映画に出会うまでは絶望の底にいて動けなかった子だったそうだ。

映画に心を動かされ、もっとたくさんの人に見せたいと願い、仲間を集めて上映会を開催した。

この映画が作られたきっかけも、その上映会が開催されたきっかけも。
どちらも10代の「一般的な枠から外れてしまった」子どもたちの手によるもの。

一般的な枠にキレイにはまれる子どもたちに、同じことが出来るだけの力がある子がどれだけいるだろう。
枠から外れるような子にこそ、何かをする力があるんじゃないだろうか。

若者の真っ直ぐな力は、40代のおばちゃんの心を撃ち抜いたのであった。

映画も泣いたし、映画の後のドキュメンタリーも泣いたし、その後の主催者挨拶でも泣いた。
素晴らしかった。

私はこれからの未来を歩んでいく子どもを育てている。
だからこういう、生きづらさがあっても支え合って生きている若者
の姿がとても眩しい。応援したい。

もうおばちゃんの私が出来ることは、子どもが進みたい道を阻んだり、嘲笑したりすることじゃない。
出来うる限り歩きたい道を歩かせてあげて、こちらから「世間一般の常識」を押し付けることなく、大人でなければ出来ないことがあって困っていることがあるときには、助けてあげることだ。

これからの世界を作る若者たちへ、出来る限りのエールを贈ります。

素晴らしい作品をありがとうございました。

この先の子どもたちが、どんなかたちであれ笑顔で成長していける世界になっていくようにやれることはやっていきたいと思う。


こちらの記事を読むと映画が出来るまでのいきさつとか結構わかります。
すげぇなぁJK。かっこいいよ。


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水谷アス
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