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他者の『出来ない』を受容し合う大切さ



『貧困と脳』を読んで思ったことをツラツラと


著者の鈴木大介さんは、高次脳機能障害当事者である。
もともとは"健常"と呼ばれる脳で生活してきて、途中から脳に障害を負った。そしてその障害を負ったあとの"不自由な脳"を言語化したところ、発達障害をはじめとした脳機能に困り感がある人の共感を多大に得たという。

こちらの本を以前読んだことがあって、noteで感想は書いてなかったはず…
Voicyの方では喋った

奥様は恐らく発達障害と思われる特性があって、鈴木さんが脳に障害を負う前までは「なんでこんな簡単なことも出来ないんだよ」と思うことも多かったという。でも、自分の脳に不自由さを抱えたことで「やらないのではなく、やれないのだ」ということを知っていく。

そしてお互いで「出来ることを探す」ことにより、夫婦の絆が深まっていく話になっている。

中身をこちらでも読める(多分全編ではない)ので興味が沸いたらこちらから読んでみてほしい。


本の概要


今回の本は、元々鈴木さんが貧困を抱えた若者に対してルポライターとして活動していた頃のことを振り返り、脳が健常だった当時に聞いた話から当人たちの脳がもしかすると『頑張りたくても、頑張れない脳』…いや、『頑張っているけどそれを認めてもらえない脳』だったのではないか。という視点で書かれている。

全編通して現在鈴木さんが脳に障害を負って知った不自由さと、取材したときの相手の様子や会話の内容を照らし合わせていくのだが、鈴木さんが言語化する不自由な脳の表現がもう、まさに(発達障害の…と一括りにしてしまうのは乱暴なので)私自身の困り感として抱えている特性そのものだったりする。

私自身は生まれつきその脳で生きているので、むしろそれが当たり前という世界で生きてきた。

人の話が長くなると頭の中がだんだん白く濁ってくる感じになるとか、同時に物事を処理しようとするとパニックになって逃げ出したくなるとか。
役所の書類が煩雑すぎて書類を見ただけで思考がフリーズして何をどこに書いていいのかわからなくなる、など「あああ、わかるわかる」となりながら読んだ。

それに共感出来る自分は、世間一般的に"健常な脳"と呼ばれる脳とは違うのだということを改めて思い知らされる。

だって、鈴木さんは、障害を負う前まではこれらの感覚を理解出来ていなかったのだ。脳機能に障害を負ったときはじめてその体験をし、自分が健常だったころ"出来ない相手"に対して思っていたそれらが"頑張っても出来ない"ことだったことを知ったのだから。

このふたつの世界を知っている人というのは、とても貴重だと思う。
世界の大半の人間は、どちらかの世界しか知らない。
橋渡しをするような活動をしてくださることに、心から感謝したい。


不自由な脳について


互いに想像でしか知り得ない世界。
私も(健常な脳の人だったらどう感じるのかなぁ)と憧れるのみで、すぐパニックになって脳機能が固まる今の脳としかお付き合いしたことがない。

先日なんて、買い物に行った先の店が内部改装していて、売りものの位置が全部入れ替わっていただけで倒れそうになった。
どこに何があるかわからない!!と思った瞬間に脳内の思考にモヤがかかったみたいになり、動悸が激しくなり、息があがる。

本の中で書かれていたが、まさに『不安スイッチ』が入った状態になってしまったのである。

不安の感情や記憶に注意が固執してしまうのを、自身でリセットできないこと。一度考え出すとそのこと以外考えられなくなること。そしてその状況になると、脳のその他の認知判断機能がごっそりと失われてしまうことだ。

立ち向かうための行動を起こさなければいけないのに、逆に全く動けなくなるなんて想像したこともない不自由さだった。だいたい不安になると文字が読めなくなるとか、人の話が聞き取れなくなるとか、全く意味不明だ。

『貧困と脳』脳の中の「不安スイッチ」部分より引用。本当に意味不明だけどこういう状態になる


誰か信頼できる存在がそばにいるだけで、この不安スイッチの作用は弱くなる。しかしこの日は私一人だった。

一度入ったスイッチは、どんどん思考をぐしゃぐしゃにしていく。

何を探しにきたのかわからなくなり、自分が前に進んでいるのかすらわからなくなり、まともに立てているのかすらわからなくなる。

新しく出来たキラキラフワフワしたものが沢山並ぶコーナーで楽しそうに商品を手に取る親子がまるでTVの中の画像のように非現実的に目に映る。

買い物を諦めて帰ろうかと思ったが、たまたま目の前に買おうと思っていたものが現れて「そうだ、これを買いに来たんだ」と現実に引き戻され、フラフラ会計して帰ってきた。

多分普通の人は、行きつけのお店が内部改装したぐらいでパニックになどならないんだろう。
とはいえ、私も処世術としてというか、内心そういったパニックになっていても表面的には平常心を保ち、何事もなかったように会計している一人の客に(恐らく)なれている。

本の中で、レジの前で小銭をぶちまけてパニックになり、お釣りももらわずお金だけ置いて逃げ出した取材相手の女性のエピソードが出てきたが、あの気持ちもめちゃくちゃわかる。
でも、私は、逃げ出すまで不安が高まったことはない。だから軽度なのかな、と思ったが、もしかすると不安を抑え込む術を"身につけてしまった"という方が正しいのかもしれない、とも思う。

大丈夫、大丈夫、落ち着けば払える、と自分に言い聞かせて支払いを終え、一人になったあと、全身脱力してため息をつく。そんなことが日常。

最近はセルフレジで自動計算の場所も増え、そういう経験も少なくなった。ありがたいことだ。

みんなこういう事でいちいちパニックにならないのか、私のように、内心パニックなのに平常心を装っているのか、どっちなんだろうと思うことは昔からよくあった。
私がちょっとモタモタすると周りが何か言ってくることは日常的だった。
「何か言われる前に」「スムーズに、スマートに」と焦れば焦るだけ上手くいかなくなる。だから私はいつでも家族の中でも友達同士でも『どんくさい子』という扱いだったし、そういうものだと思っていた。

でもやっぱり、鈴木さんの文章を読む限りでは、出来る人を装っているわけではなくごく自然にそれが出来る人というのは存在するんだろう。
世界中の割合的にどれぐらいいるのかはわからないけどね。実は装っている人のほうが多いかもしれない(そう信じようとしている)

とはいえ、そうだとしても自然に出来る人にとってみれば出来ない人はきっと信じられない存在なのだろう。

私は人前で何か発表しなければいけない場面になると、この不安スイッチがマックスレベルで入ってしまう。声はおろか全身が震え、カンペを作っても文字なんて読めない。最悪、立つこともままならなくなって突然泣き出すヤバいヤツになる。

ちなみにこれは、ちょっとした集まりの「自己紹介」ですらこうなる。
「端っこから順に…」って言われて、序盤で終わる席にいればいいが最後の方だと不安が高まりすぎて自己紹介で泣き崩れる。ヤバすぎる。

この不安スイッチは、自分が抑えきれないレベルになると自我も吹っ飛ぶんだと思う。あの状態はもうエヴァンゲリオンでいうダミープラグが起動した状態だと私は個人的に思っている。
あのときの私は、私だけど私じゃない。

自分が当たり前に出来ることほど出来ない人のことがわからない


ちなみにうちの夫は家の中で唯一『無くしものをほとんどしないひと』なのだが、何故かというと『ものをどこに置くかきちんと決め、ものを置くときその都度そこに置くことを確認できる人だから』である。

私も娘たちもこれが出来ないので、女3人は家の中でいつも探し物をしている。そして夫はいつも私たちに言う。

「なんで決まった場所に置かないの?決まった場所に置かないからわからなくなるんでしょ?」

わかっている。わかっているんだけど、何故か出来ないのだ。
やる気がないんじゃないんだ。やりたいと思ってるんだ。工夫もしてみたんだ。でも無くすんだ。

何度も言った。でもそれを当たり前に出来る夫は、それが出来ない感覚をわかってくれない。

それはそうだろうと思う。私は絵や文を書くのが得意だが、夫はそれが苦手だ。特に文は壊滅的に書けない。驚くほど書けない。
思ったことを口に出す代わりに文字にするだけだよ、と言っても、そんなこと言っても書こうとしたら何を書いたらいいかわかんなくなるんだと言う。

書きたい文章が勝手に頭の中に沸いてくる私には、その感覚も理解できない。そういう人もいるんだなぁ、と思うしかない。

出来る側の人間は、出来ない側のことを想像することが難しい。それが自分にとって当たり前に出来ることであればあるほど。

だからこそ思わず「なんで?」と、言ってしまうのだ。
実際、私も夫に「文ぐらい簡単に書けるでしょ」と何度か言ってしまったことがある。(今はこういうことは言わないように心がけている)

出来る側が圧倒的多数のとき、その『なんでこんなことも出来ないの?』はあまりに暴力的に日常生活に押し寄せてくる。

何で出来ないの?と言われても、自分自身だってその理由なんてわからない。わかっているならどうにか出来るけど、わかんないからどうにも出来ないのである。でも、出来る人にはそれすらわからない。

私自身、問われるということは、相手にとっては出来て当たり前なんだろうということはわかってしまう。
問われないようにしたい。でも出来ない。

問われる事が怖い。失敗したらまた言われる。
「何で出来ないの?」と言われたくない。
でも人と関わればいつも問われる。
問われるのは毎回同じことではない。
あれも出来ない、コレも出来ない。
日々あらゆる場面でそれを思い知らされる。

私はいつからかは明確にわからないけれど、他者と関わることを『怖い』とずっと思っている。でもひとりぼっちは寂しいとも思っている。
だから頑張って人と関わろうとする。

でも、それはとんでもなく疲れることだ。

出来ない自分を知り、鞭を打たずに飴を食え


たくさん頑張っているのに「ちゃんとやれ」と言われる。
どれだけやったら「ちゃんとやった」ことになるのだろう。
「自分はきっとまだまだ頑張っていないんだ」と自分自身に鞭を打つ。
ずっとそんなことの繰り返し。

発達障害の診断は私にとっては救いだった。
なんだ、そうか、脳の作りが違ったのか。
それがわかったときそれまでの人生における「何で出来ないの?」の答えがほとんど出たと思う。

何で出来ないの?
…脳の作りが違うからだよ。

まぁそう言ったからって納得してくれる相手はほとんどいないと思うけど、自分自身が納得できたことはとても大きい。

出来ないもんは出来ないと割り切って「出来ません」と言うこと。
出来ることを探して「これなら出来ます」と言うこと。


自閉日記2巻~ライフハック編 より


こうやって「大丈夫、出来なくていいんだよ」と自分に言える生き方をするようになって、自分に鞭を打たずに飴を与える事がとっても上手になった。だから今は、生きることを楽しめている。

鈴木さんもまた、同じ結論に至っていた。

働く当事者や復職を望む当事者、特にキャリア形成後に中途障害を発症した当事者に伝えたいのは、「できないこと探し」よりも「まだ出来ること」を探すこと。その両者を比較することだ。

『貧困と脳』~「できないこと」より「まだできること」を探す より

出来ないことを出来るようになろうとすることは、とてもしんどい。
出来るようにすらならないことだって多々ある。
でも自分自身はそれになかなか気付けない。

だから私は、今もなお自分に鞭打って生きている人が少しでも楽になるようにと当事者エッセイ漫画を描いている。


『発達障害』という枠組みで考えることへの迷い



ただ…エッセイで啓発活動をしてはいるものの…鈴木さんの本書において「発達障害診断がつくことに対する懸念」のような事が書いてあって、私もここには大いに共感している。

私にとって発達障害診断は救いだった。それは、自分と向き合うきっかけになったからだ。逆に、向き合わないことのきっかけに診断を使う人もいると思っていて、そうなることを私はあまり望まない。

自分が出来ないことがある理由を「発達障害だから」という大きな枠で捉えることはとても危険だ。どうせ発達障害だから出来っこない、みたいな考え方はしてほしくないな、と思っている。

私の発信を見て「処理速度が高いならまだいいじゃないか、処理速度が低い自分は負け組」みたいに言ってる人がいるけど、処理速度が早すぎて目から入る情報に脳がついていけないから、脳がフリーズするんだと思う。
多分処理速度が低いタイプの人は、行きつけのお店が改装されたぐらいでパニックにならないのではないだろうか。

もちろん『漫画を描く』という作業においては処理速度の高さは恐らく武器になるし、どんな能力も使い方次第だろう。

脳の発達は個人ですべて違う。
良くも悪くもフルオーダーメイドだ。

私が苦手としていることを得意としている発達障害者もいるし、私が得意としていることを苦手としている発達障害者もいる。

『一般的多数と比べて苦手なことが多い』ことが社会的障害になるのであって、発達障害=コレが出来ない、というただひとつのことは存在しない。

発達障害の人なら大きな音に弱いんでしょ?とか、スケジュールを視覚化すればいいんでしょ?とか、そんな単純なものではない。

だから個別に「自分が何に弱くて、何が苦手で、何が得意で、何が出来るか」を『当事者が』自覚しなければいけない。当事者が自覚出来ないなら、支援者がそれを自覚できるように工夫する必要もある。
支援者の存在は本当に大きいと思う。
私は家族が支援者だ。マジ心の拠り所。

そばにいてくれるだけでやれないことが自力でできるようになる。
やはり背景にあるのは、不安が情報処理的リソースをいかに奪っていたかだ。ということで、当事者としてこれは断言してもいい。
不安を軽減することで、自身の持てる最大限のスペックを発揮するための最良の手段は、他者に適度な依存をすること。信頼できる他者を作り、そばにいてもらうことだ。

『貧困と脳』~不安を軽減すれば、最大限のスペックを発揮できる

▲これは私も当事者として断言してもいい。
依存は良くないと言われることがあるが、適度な依存は絶対に大事だ。
そこにいてもいいという場所があると不安は軽くなる。

発達障害の支援という視点で見ると、特定の人間・場所に依存するのはあまり良くないと考えられがちだが、そうじゃないと私も思っている。

だからこそ「発達障害」という入口から入ることによって、本当に必要な理解が遠回りになる懸念は鈴木さん同様、私にもある。
それで最近、発達障害系の発信がうまく出来ずにいる。

「発達障害なら◯◯」ではないのだ。
「これが苦手なら◯◯」なのだ。

それならいっそ「考え方しだいで生き方が楽になる」という視点での発信のほうがいいんじゃないのか、とか。(それで心理学関連の発信も増えている)
でもそういう発信より発達障害を絡めた発信の方が明らかに反応が良くて、必要とされているのはこっちだろうかと迷ったりして、どうにも定まらない今日このごろ。

発達障害ということばを入れないと情報に触れに来ない人もいる。
そういう人に届けるためにはそういうことばを入れた発信が必要になる。

発達障害ということばを入れた発信に対し「これ、別に発達障害の有無に関係なく、誰もが知っておいたほうがいいことだよね」という反応もある。
そうなんだよ。本当は、そうなんだよ、と画面の前でうなづく。

私が自分の体験を語って考え方の視点を増やして欲しいと願う相手は、特に『無自覚に自分に鞭打つ当事者』と『無自覚にそれを追い詰める、当たり前に出来てしまう人たち』である。

届けたいところに上手に届けることは、とても難しい。


助けたい対象を絞って発信することのメリット・デメリット


届けたい場所にスポットを絞ることで届かなくなることもある場面を考えると非常にもどかしさを感じる。
そして、スポットを絞りすぎることでそこから外れた人へうまく伝わらなくなることもある。

今回の鈴木さんの著書は「貧困」にスポットを当てているわけだが、私は幸いにも不自由な脳を持っていても、貧困に陥ったことはない。でも結構ギリギリのところをわたったことは何度かある。
一度落っこちると、貧困の谷は…とても深そうだなと思う。

今回の鈴木さんの著書において、前半8割ぐらいまではひたすら共感ばかりだった。そうだよ、それが出来ないんだよ。でもそれをわかってもらえなくて、わかってもらえないことが辛いんだよな。こうやって伝えてもらえることがとてもありがたい。
泣きそうになりながら読んだ。

でも最後の「貧困」の描写が出てきた瞬間、突き放された感じがした。

『でも、あなたはアウトローな世界に落ちるまで行ってないから、そんなに生きるの大変ではないですよね』と言われたような気がした。

勿論そんなことは書いてないし、むしろ鈴木さんもアウトローに落ちた当事者と落ちてない当事者は大変さが違うであろうことは掘り下げて考えたいと書いている。

彼らが長じて直面することになる不自由の形や求められる支援の形が、アウトロー属性を持たない(ある程度の家族支援や教育資源を持つ当事者や、それがなかったとしてもアウトローな世界に取り込まれずに育った)者とは、明らかに異なってくることだ。
貧困を論として語る上でも、支援の場でも、この差分を知ることは、非常に重要に思う。深堀りを、試みたい。

『貧困と脳』~日本に貧困がない時代などあったのか?

そう、支援のかたちが違う。なので、今回この本はあくまでも「貧困」と「不自由な脳」が組み合わさった場合の支援について書かれている本だっただけの話なのだが、今回、貧困が組み合わさらなかった当事者である自分が読んで感じた素直な感覚を書いておく。


「あなたはあの人と比べたら困ってないですよね」


▼診断を受けた当時のことを描いたエッセイ漫画(自閉日記1巻より)


困ったことが何もない人は、病院に行ってわざわざ大変な検査なんて受けに行かない。

仕事が出来てて、結婚出来てて、子育て出来てるなら困ってないなんて、そんなことない。

でも、私の頭はそのことばを口から出させなかった。

自閉日記3巻からの抜粋。

知能が若干高め、そして家の外での問題行動が少ないゆえに周りにその困り感を理解されづらかった長女。

先日描いたエッセイからの抜粋



長女は6歳ぐらいまで「知能が高いから大丈夫」と言われてきた。
もっと困ってる人を支援をするのが先、娘さんみたいな会話が成立する子まで支援していたら手が足りなくなる…というような話もあった。

知能が低い子の大変な話を聞くと、たしかにウチの娘は支援が必要ないのかもしれないと思わされた。

でも、困ってない子が、たった5歳で「自分は生まれてこないほうが良かった」なんて思うわけがない。
こんな思考に至るのは、むしろ、知能が高い故なんじゃないのか。

そう思いながらも、療育に通う中で明らかに言葉が通じていない子や明らかにすべての生活の補佐をしなければ生きていけなさそうな子を見ると、どうしても「確かにうちのコはあの子達と比べたら困っていない」と思ってしまう私もいた。

でも、当時の長女は、間違いなく困っていたんだ。わたしは、あのとき長女が困っていると周りに伝えることに後ろめたさを感じる必要なんてなかった。もっと堂々と困ってるって言って良かった。

今も尚、知能が高い困り感のある子の親御さんは堂々と言っていい。『知能が高いから困らない』なんてことはない、と。

私も、貧困に陥らなくとも、困っていた。
でも、貧困の世界に落ちた人のエピソードを読めば読むほど「私はこの人達と比べたら困っていないだろうか」と思ってしまう。

でも、就職出来ていようが、結婚できていようが、子育て出来ていようが、当時の私は自分の存在を自分で肯定できなかった。

「出来ない自分」が、他者から批判されたり差別と排除を受けてしまう自分自身が、彼らの認識する本態の自分なのだ。それが自分のパーソナリティそのものだと思ってしまうのだ。

「自分が生きていてもいい人間だと思えたことなんか一度もない」
何度も聞いたような声が、脳裏に蘇る。人の本質とは、誰かのために役立って生きることだ。人とは支え合って生きる動物なのだ。
そんな綺麗事が刃物となって彼らを切り刻むだろう。

『貧困と脳』~それは、あなたのせいではない

たった5歳で自分自身を否定した長女。
今はすっかり元気になって自傷行為もせず、精神的にもかなり穏やかになった。でも、たまにぽつりと「私なんて、この世界に必要ないと思ってる」と言うことがある。「もし世界が必要としていないとしても、私にとっては絶対に必要だ」と言うと、娘は「何かイイコトっぽいこと言ってる」と笑う。

世界に必要とされているということを本人が実感するためには個人の言葉では足りない。優しい世界が必要だ。
「出来ないこと」が『誰からも』批判されない世界が。

そしてそれは、貧困の谷に落ちた人でも落ちてない人でも、知能が高い人でも低い人でも、結婚した人でもしてない人でも、子どもを産んだ人でも産んでない人でも………どんな人にとっても、必要な世界だと思う。

私も「自分に生きてる価値がない」と思う瞬間はずっとあったが、そういえば最近はそう思うことがない。いつからだろうと思い起こすと、発信活動をするようになってからのような気がする。
人に否定され続けた自分のパーソナリティの発信をすることが、誰かを救うことがわかってから私はようやく自分を認めることが出来たような気がする。

貧困と不自由な脳の組み合わせは恐らく本当にとんでもなく大変だ。
その世界を伝える必要性があることも、わかる。
救いが必要なことも、わかる。

でも、知能が高くても、一見恵まれた環境にいるように見えても、あなたが困っているのならば、困っているという言葉は堂々と言っていい。

わかってほしいと願うなら、それを声に出していい。
むしろちゃんと伝えるべきだ。

しんどさを、辛さを、誰かと比べなくていい。
あなたが辛いなら、辛いのだ。

誰もが何かしらの辛さを抱えて生きている。
私や鈴木さん、そして本の中で出てくる人々が抱える困り感が無い代わりに、ぜんぜん違うことで困っている人もきっとたくさんいる。

みんなそれぞれに我慢している。
「こっちだって我慢してるんだよ」と我慢合戦をしている。
SNSではちょっと愚痴をこぼした人を叩いて回る。

もうそういうの、やめませんか。

どうせ我慢合戦をするなら
「私は我慢しない、あなたも我慢するな」
って言いませんか。

強がることはとっても疲れる。
だから、いっそ、弱いところ、見せ合いませんか。

私はずっと、そう思っている。


貧しく困った心を増やさないために


鈴木さんは最後のあとがきでこう書いている。

見えない努力をし続ける者の努力を無にする理不尽、そしてそれによって起きる孤立こそが、貧困の本態なのだ。
願わくば、本書をもってその理不尽に終止符を打ちたい。

『貧困と脳』あとがき

貧困の概念が上記のものであるのならば、経済的困難や恵まれない環境のような目に見えるものだけが貧困ではない。
私は、経済的貧困には陥らなかったけど、精神的貧困を抱えて長い事生きてきたと思う。

でもそれは目に見えない。そして、自分の中で生まれつきのものすぎて、どこからどこまでが貧困だったのかはわからない。
でも、ふたつの世界を知っている鈴木さんが「こういう脳の人は、多分そうじゃない人にはわからないだろうけど、こういうところが大変なんだよ」ということをいくつも言語化してくれたこの本は、私にとって充分すぎるほど救いだった。

鈴木さんの脳が健常だったころ、不自由な脳の持ち主のことを理解出来なかったことへの後悔や自分自身の怒り、そして当事者への謝罪の気持ちが本の中では何度か書かれている。

私はそんな鈴木さんへ、感謝をお伝えしたい。

不自由な脳の通訳をしてくださり、ありがとうございます。



自己責任論で枯れた砂漠に花畑を



私は最近自分自身の活動を「種まき」と称している。
それはソマノベースさんという企業の「どんぐりを育てて山に返す」活動を知って、参加してからのことだ。

今までの世代が木々を伐採し、地崩れなどの災害が起こるようになってしまった山に、どんぐりの苗を植えて山を再生する活動。

苗が育って森になり、過去の豊かな山を取り戻すためにかかる時間はおよそ2世代先と言われているそうだ。

乾ききった砂漠のような自己責任論がはびこる社会が変わるのにも、恐らく2世代ぐらいはかかると思っている。
今回の本が沢山の人の心に届く種になり得るしても、枯れた世界を一瞬で緑豊かな世界に変えることは出来ないだろう。

それでも私は、この本が出来る限り多くの人のもとに届くことを願う。

目の前の世界が何も変わっていないように見えても、自分からは小さな芽が芽吹いた程度の変化しか見えなくても、それがいつか何年も先に豊かな森になってくれたらいいなと思う。

私もそう思いながら、地道に種まきをしている。
時折「あなたの発信から得た種で私の心に花が咲き、行動を起こすことができました」というようなお言葉をいただけることがあって、とってもありがたい。

森や山ほどの大規模な変化なら2世代かかるかもしれない。
でも、種を撒くような活動を続けたら、未来の子どもたちと一緒に小さな花畑ぐらいは見られると信じている。

軽くまとめるつもりで書き出したのに、とんでもなく長い感想文になってしまった。

最後まで読んでくださった方ありがとうございます。

Voicyも録ってます。

【2024年12月11日 08:00配信予定】

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水谷アス
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