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心に寄り添う出版社と作家

先日、小さな出版社を経営している方の講演会を聴いた。

センジュ出版は下町の小さな小さな出版社だ。
年に1冊とかのペースで本を出すから、出した本は10冊にも満たない。

それでもセンジュ出版に対する根強いファンはいる。
それは本に、作品に向き合う姿勢に、出来上がってきた作品たちに心底惚れ込んだ結果なのだと思う。

センジュ出版の作品に対するスタンスは色々あるが、私の心に特に響いたところは以下。

「世間が欲しいものを書いて欲しいんじゃない。あなたが書きたいものを、伝えたいことばを、出来る限り書きたいかたちで書いてほしい」

「批判の意見が沢山届いてもいい。
批判の合間にある、届くべき人へ届くこと。
作品を通じて、出会いたい人に出会えたというその事実が何より大切だ。
反対意見に向き合って辛いときは、一緒にその辛さに向き合ってあげる」

「そのために厳しい事を言うこともある。
でも、それは、お互いでより良い作品を作るために必要なこと」

「何万人ものフォロワーのためではなく、自分を信じてくれるたった3人に届けばいい。そういう作品を本にしたい」

「人はみんな違う。社会という、お面をかぶった同じ人に対して、その場にいる人達にに響く作品を作ろうとしても、お面の下は実はみんな違う人。
お面をしていない、大切な誰かに向き合って言葉を紡いでほしい。
それは、お面をしていない他の誰かにも届く作品になる」


たくさんの人に売ろう。
ヒット作を作ろう。

出版に関わる人は、そういうことを考えている人ばかりだと思っていた。


多数に、社会に響く作品づくりを。

今の流行りは何?
ウケる作風は?絵柄は?

あなたが描きたいことを描いてほしいわけではない。
みんなが読みたいものを描いてください。
そうでないと売れませんから。

こちらは以前マンガの持ち込みをしたときに、少しだけ一緒に企画づくりをした担当さんに言われた言葉だ。
そしてこれは、多分大半の、出版に関わる人が言う言葉だと思う。

実際それはそうだろう、本が売れなければ、作品がウケなければ会社が困る。
作家の描きたい心に寄り添うより、社会側に寄り添って作品作りをさせようとすることが多分世の常だ。

私はそういう作品づくりがしんどくて、それ以来「持ち込み」というものをやめてしまった。

誰かに作品を見てもらったとき
「これは社会的にどうだろう」みたいな感想がつくとうんざりした。

私は「社会的にどうか」じゃなく
「あなたがどう思ったか」を聞きたいのに。

『担当がつきます』という謳い文句と共にあるマンガ賞に応募するときも(もし賞が取れても担当はいらない…賞金だけでいい…)と思っていた。
「社会的にウケる作品を作ろう」ということを勧めてくるであろう担当と作品作りをすることに、どうにもメリットを感じられない。

でも結局、作家として誰かに認めて貰わないと作品が世に出ていかない。
持ち込みやマンガ賞への応募はそれのきっと大切な一歩なのだ。

ただ、やっぱり、私はそれがとても嫌で嫌で…

それを拒もうとしているままでは結局、マンガできちんと収益を得て生活していくことが出来ないのだろうとも思った。

それでもやっぱり、どこの誰に向けているのかすら曖昧な、ふわふわした『世間』に対する漠然とした作品作りはしたくなかった。

自分が描きたいものを描いた結果、社会がそれに反応してくれるのが理想だと思っているけど、結局のところ理想論なんだろうとも思った。

そして、そう考える自分はきっと、
とてもわがままなんだろうと思った。

でも今回の講演会を聴いて、思ったのだ。

そういう形で本を出して、わずかながらでも結果を出してファンを作っている出版社さんはあるのだと。
小さくほそぼそとした活動でも、それはとても魅力的だった。

私も、そういう作家になろうと思った。
別に大人気作家でなくてもいい。
小さくほそぼそと、でも誰かにきっと届くような作品を作る作家でいたい。

だってその丁寧に丁寧に社会に出してもらえた作品たちは、本当にとても素晴らしいものなのだ。

私が一番好きな本はこれ。
あまりに好きで、以前コミカライズさせて頂いた。


この作品はほんとに、誰か映画にしてくれ…とずっと思っている。
だって、すごく大切なことがいっぱい詰まっているから。
たくさんのひとに、子どもたちのこえを聴いてほしいから。

だからこのときは、映画の予告編を作っているような気持ちで、マンガを描いた。「読みたい」と思って欲しい。と。

そして当時、この漫画をTwitterで上げたとき、一人だけ「この漫画を読んで気になったので、本を注文してみました」とコメントをくれた人がいた。
『届いた!』と嬉しくなった。

社会に向けてなんて描いてない。
この本に向き合ってくれそうな、子どもと大人の関係に思い悩んだりしているあなたへ、どうか届きますようにと願って描いた。

たったひとりにそれが届いたことが、そういえばすごく嬉しかったな…と、講演会の話を聴いて、ふと思い出した。


私が今、noteで連載しているマンガも、ずっとその「作家と編集の関係」に思い悩んだ結果、個人で一回気が済むまでやってやろうと描き始めたものだ。

この講演会を聴く前に偶然その境地にたどり着いていた事が不思議だが、この作品も「たったひとりの人」のために描いている。

それは、過去の自分自身だ。


私自身、小さな頃から自分の性認識がとても曖昧だった。

自分が女であることにものすごい違和感を抱いていて、拒絶感すらあった。
だからなるべく男の中に身を置いた。

しかし、そんな私のアイデンティティは認められる事がなかった。

「女なのに何で男とばかり仲良くするんだ」と大人には否定された。
「男に媚びてる」と同世代からはいじめられた。

周囲から否定されることは辛かった。
だからなるべく否定されないようにと、そういうことばかり考えるようになった。

どうしたら否定されない人間になるだろうかと、周りの目ばかり考えて人と接した。

当然のことながら、そんな生き方楽しくも何ともなかった。

たまにうっかり本音で話すと私は大抵相手を怒らせた。

だから私は、本当の私をずっと心の奥に閉じ込めて、出来るだけそつなく、嫌われない自分を作って人と過ごすようにした。

恋なんて出来なかった。自分を好きになってくれる人なんているはずないと思っていたし、私自身が人を好きになることもないと思っていたからだ。

それでもある程度の年齢になれば周りは恋愛だ結婚だと騒ぎ立てる。
慌ててそういう世界に飛び込んでみても、そんな心持ちで恋なんて出来るはずもなかった。

そんな私の世界をすべてひっくり返してくれたのが、今の夫だった。

夫がたくさんの「わたしのいいところ」を教えてくれた。
「だから君が好きなんだよ」と恥ずかしげもなく、何度も何度も伝えてくれた。

私のことを好きになってくれる人のことを、私もようやく好きになった。
そうしたら、とても息がしやすくなった。

でも夫に出会うまでの私は、本当に息苦しい世界に生きていた。
だから、その頃の私に向けて、私は今の作品を描いている。

あの頃の自分がこの作品を読んで、何かに気付けたらいいなと願いながら描いている。

そして、同じ悩みや同じ苦しさを持っている他の誰かにも届いて欲しいと思って描いている。

響かない人も勿論いる。むしろそっちのほうが多いと思う。

反感を覚える人もいると思う。
実際、初期段階で、反感を伝えてきた方もいた。
共感の言葉は殆どもらえていない段階から、反感だけは食らった。
心が折れそうになった。

共感の言葉より、反感の言葉の方が伝えやすいのは何故だろう。
具体化しやすいのだろうか。

反感の言葉に惑わされて、少し表現を変えてしまった部分があった。
でも、自分としては前のほうが良かったような気がしている。
ブレない作品作りをしたいもんである。

そんな作品はこちらに置いています。
ここまでの文を読んで、共感できそうと思った人は読んでみてください。

地道に、少しずつ、自分の描きたいものを描いています。

どうか届くべき人まで作品が届いてくれますように。


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