全部が変わった日
昨今、ウイルスに怯える日々ですが相変わらず騒がしく仕事しております。モノです
外来に出向く度に心の中で悪態をついたりサンバを踊るレベルに喜んだり母はそれくらいには情緒不安定な日々が続いた。
両親や祖父母の心配をよそに私は大きくなった。
幼稚園に入る前、未就園児~年中までは私の人生の中での 胆管炎フィーバー と言っても過言ではないらしい。
月に何度も胆管炎を起こしていた。
高熱を出し、腹痛を訴え、救急で飛び込んで、そのまま入院し、退院してまた高熱を出す その繰り返し。
胆管炎と同じ時期に何度か起こしたのは下血だった。
食道静脈瘤があり、2歳位から毎年胃カメラを通して見つかる度に硬化療法で対応していても、また日が経てば新しいのができて破裂して下血する
月に2回入院するなんてしょっちゅうあったらしい。
多分、いや絶対今の私なら発狂してると思う。うん。無理。
あんまりにも頻繁に起こすもんで、胆管炎を起こしにくくするオペ?的なもの(よく知らない)をやったらしく年長になる頃にはかなり回数が減った。
そして、季節は春
無事に、何とか、(両親が)死ぬ思いで、小学生になれた。
ワインレッドのランドセルに某ハイブランドのワンピースを着てその日を迎えた。
校門の前で母と写真を撮ったことは微かに覚えている。
この頃にはほぼ胆管炎フィーバーは終わり起こさなくなり、傍目に他の子達と何ら変わらなかった。
ただし、体育の球技だけは腹部圧迫につながるといけないので注意するようにと。
小学校生活における注意はたったのそれだけ。
みんなと6年間楽しく笑顔で通える。勉強ができる。
そう思っていた。
あの夏の日までは。
あれは1年生の2学期が始まって間もない頃、学校では初めての運動会に向けての練習と運動会後に開催される音楽会の練習が続く日々だった。
本番を間近に控え、丸一日使って予行演習する2日ほど前。
私は夏風邪をひいた。
咳が止まらなくて、本番のためにその日は1日欠席した。
特にその日も熱が出るわけでもなく、咳が悪化する訳でもなく家で暇していた。
「こんなことなら学校行きたかっなぁ」なんて呑気なことを言いながら。
母は次の日も念の為休んではどうかと提案してきたが、私が断固として登校すると聞かなかった。
背中にはまだ少し大きいランドセル
右手には体操服の入ったサブバッグ
左手にはピアニカ
お気に入りのスニーカーを履いて
2年前に生まれた妹と、祖父が亡くなってから同居し始めた父方の祖母と、母 この3人に見送られていつもと変わらない朝だった。
「じゃあ、ママ!いってきまーす!」
元気よく飛び出して合流した登校班は進み始めた。
今でもそうだけど、私は歩くのが遅い。
この頃も登校班の他のメンバーと比べると本当に遅かった。
登校班から置いてけぼりにされることもしばしばあった。いつも自分だけ別の班に混じるのが恥ずかしくてその日も一生懸命歩いた。
季節は9月、まだまだ暑い日
背中は汗でびしょ濡れ、オマケに荷物は多い。
それでも遅れを取らないよういつもよりも大きな歩幅で必死で食らいつくように歩いた。
通学路の1つ目の登り坂で、急に瞼がめちゃくちゃ重くなって目を開けていられなくなった。
坂を下りる頃には目の前が猛烈に眩しくてまた目が開かなかった。
私はその日、心不全で失神した。