幼稚園児と一緒に登校してた話


私は毎日小学生のシンボルマークとも言うランドセルではなくショッキングピンクにビビットピンクという傍から見ればとんでもない色使いのリュックサックに輸液ポンプを機械ごと突っ込み


リュックサックのありとあらゆるポケットに替えのチューブやらコネクタやらクマ先生が作ってくれたお手製の緊急フローチャートやらを詰め込んでいた。


校長と私、母の3人4脚で作成した緊急対応マニュアル案が完成した頃に私は進級した。


クラス替えと共に担任も変わる。
クマ先生とはお別れ。
まぁ校内にはいるけども。

春休み中に連絡が入り、新しい担任が決まったのでマニュアル案のことも含めて今年1年間の話をしたいと言われ、学校に呼ばれた。


その間私と妹はは、保健室で待機させてもらった。
次の担任の先生誰かなと想いながら2年生が終わるまでに到底覚えられなかった九九を必死に覚えていた。

ちなみに、復学した頃の私の学力は1年生の一学期で止まっていたので何もかも1からやり直し状態。
九九は3年生の秋にやっと覚えて、授業についていけるようになったのは4年生の終わりごろというハイパーイレギュラー児童だった。

保健室のドアが開き、母が帰ってきたと思い振り返るとそこには母とクマ先生と1年生の時の担任がいた。


『1年間よろしくね』


1年生の時の担任が3年生でまた担任になってくれたのだ。(以下、シロ先生)


シロ先生は背が高くて足も長くてめちゃくちゃスタイルの良い女の先生だった。


と、こんな感じで毎年フライングで数日前に自分の担任を知らされていた。もちろん、周囲に言うなと言われていたけど。


3年生になって数週間ぐらい経った頃に、職員会議に母も参加させてもらって緊急対応マニュアル案検討会が開かれた。


そこで正式に案から正式決定に変わった。
正式決定したマニュアルは校長自らが職員全員分印刷して製本して配布し、移動教室にも小さいサイズで教壇に貼り付けて、いつどこで何が起きても誰でも対応できるようにしてくれた。

今この歳になってわかるけど、本当にとんでもない労力と時間だったと思う。頭が下がる。

3年生になると、週に数日は終わりの会までいれるようになった。
その分母の負担は大きくなるけど、私は嬉しかった。


この春にもうひとつ大きなことがあった。
妹の入園だった。

私と同じ幼稚園に2年保育で入園した。
このおかげで私の生活リズムも変わった。


2年生の時は母と妹と3人で登校班が完全に行ってから出発していたけど、この年から妹が出発する時刻と同じに出発して、幼稚園児の登園チームに付添保護者(日替わりで2名)と私と母で行くのが定番化した。


幼稚園と小学校はマジのガチの目と鼻の先で、妹が登園するのを母が見送り、私が一足先に学校へ入っていく流れ。


降園時刻になると母が目の前の幼稚園に小学校から一時出て迎えに行って、2人でまた小学校のいつもの空き教室に戻って私の終わりを待ってくれていた。


妹は幼稚園でへとへとになり空き教室でおやつを食べてお昼寝してることもしばしば。


幸い、妹は楽しそうに通園してくれた。
子どもながらに私も妹には罪悪感があったし、未だにある。たぶん一生この罪悪感は消えないと思う。


彼女の人生の中の数年間を私の都合で拘束したことは一生悔やむと思う。


もちろん、まだまだあの頃も体調に波はあったものの学校という社会の中で段々と発症する前の生活と活力を戻しつつあった。


とにかく、学校が大好きで楽しかった。
嘘だと思われるかもしれないけど、次の日の学校が楽しみで楽しみで夜眠れないなんてことも普通にあった。それくらい楽しくて幸せな日々だった。


こんな生活がずっとずっと続いて、いつかはまた登校班に混ざってランドセル背負って登校したいなんて考えていた。


こんなことを考えていた自分がバカなんじゃないかと思いたくなる日がまたすぐに来ることも知らずに毎日過ごしていた。

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