見出し画像

「もうひとりのサムライ」たちを訪ねて〜9年前の東欧取材を振り返る

「Jリーグのない週末」が続いている。2月25日、Jリーグは新型コロナウイルスの感染拡大リスクに対応するべく、あらゆるスポーツ興行団体に先駆けて、3月15日までのすべての公式戦の延期を決定。しかし事態は終息することなく、Jリーグは公式戦再開を4月3日に再設定する。3月19日には、今季のJ1とJ2の降格制度を一時的に廃止することを発表。公式戦の再開は、さらに後ろ倒しとなることも予想される。

 結果として今月は「フットボールのない3月」となってしまった。いや、Jリーグばかりではない。春のセンバツ高校野球は中止。大相撲とBリーグは無観客で行われていたが、後者は試合直前に関係者が発熱する事態が続出して中断を余儀なくされている。わが国のみならず、世界中のスポーツイベントが中止や延期を余儀なくされ、今年開催される予定だったEURO2020も来年に延期。東京五輪とパラリンピックは、IOCが「予定通りの開催を目指す」としているが、開催を本気で信じている人は果たしてどれだけいるだろうか。

 フットボールもなく、移動も厳しく制限された、私たちの日常。「旅とサッカーをつむぐ」OWL Magazineとしては、まさに両翼をもがれたような状況である。そんな中でふと思い出すのが9年前の4月に訪れた、東ヨーロッパの旅。ハンガリー、ラトビア、エストニア、そしてセルビアを経由して、最後はルーマニア。いずれも、現地でプレーしている日本人選手を訪ね歩く旅であった。

 9年前の4月といえば、3月11日の東日本大震災があった直後。「サッカーのない週末」という意味では、今回と似たような状況であった。ただし現在と違って、あの時は日本を飛び出せば、そこにはフットボールの日常があった。ちょうど同時期、JFAはアルゼンチンで開催されるコパ・アメリカに日本代表を出場させるかどうかで討議を繰り返しており、「国外でプレーする選手を集めて参加してはどうか」という案が浮上していた。

 現在のように、すべてのポジションを欧州組で埋められる時代ではなかった。ならば、東欧諸国でプレーしている「もうひとりのサムライ」たちが、コパに招集されるかもしれない。そんな淡い期待に加えて「フットボールのない日常」から抜け出したいという強い希求に背中を押されて、慌ただしい準備を終えて東欧諸国への旅をスタートさせた。今回は9年前の旅の様子を、当時の写真と共に振り返ってみることにしたい。

画像1

 最初に訪れたのは、ハンガリーのショモジ県にあるシオーフォクという街。ここを本拠とするBFCシオーフォクは、国内のカップ戦を1回獲得しただけのマイナーなクラブである。日本人選手がいなかったら、まず食指が動くことはなかっただろう。

画像2

 当時、所属していた本間和生。日本でのプロ経験のないまま22歳でセルビアに渡り、04年からプレーの場をハンガリーに求めて、シオーフォクが5つ目のクラブだった。マジャール語をマスターし、すっかりこの国のフットボールに溶け込んでいた。

画像3

 この日、シオーフォクがホームに迎えたのが、首都の名門クラブ、フェレンツバロシュ。設立は1899年で国内最多のタイトル数を誇る。ブダペストからは多数のサポーターが来襲し、スタンドのおよそ3分の1をクラブカラーのグリーンで埋め尽くした。

画像4

 この試合ではFWとしてスタメン出場した本間だったが、闘争心がやや空回りするような印象。あまりパスも回って来ず、フラストレーションからたびたび叫ぶ姿も。「もっと自己主張することが必要ですよね」とは当人の弁。試合は1−1で終了した。

画像5

 本間の自宅にて。PCを広げて、東日本大震災後の祖国のニュースをチェックしていた。奥さんはハンガリーの人で、このあと娘さんが生まれたとのこと。もう随分と大きくなっていることだろう。

画像6

 続いて向かったのが、ラトビア北西の港湾都市、ヴェンツピルス。ラトビアには以前にも2回訪れたことがあるが、いずれも首都のリガのみ。やはり日本人選手がいなければ、間違いなく訪れることがなかった街である。

画像7

 当地のクラブ、FKヴェンツピルスに所属する柴村直弥。アルビレックス新潟シンガポール、アビスパ福岡、徳島ヴォルティス、ガイナーレ鳥取を経て、地域リーグ時代の藤枝MYFCから一躍ヨーロッパへ。努力の末にプレーの場を獲得した。

画像8

 FKヴェンツピルスはラトビア独立後の1997年、2つのクラブが合併して誕生。国内では強豪として知られ、欧州の大会での出場経験もあるものの、ご覧のとおりサポーターはちょっと寂しい。人口4万ちょっとの都市ならば、こんなものか。

画像9

 対戦相手はFBグルベネ2005という、2部から昇格したばかりのクラブ。格下相手ゆえに「若手を試したい」という理由で柴村に出番はなかった。結果は4−0でヴェンツピルスが圧勝。スコア以上に実力差を感じさせる試合内容だった。

画像10

 この日は、もうひとりの日本人選手である佐藤穣(右)、そしてグルベネの加藤康弘(中央)が出場。よもやラトビアで日本人対決が見られるとは! 試合後に3人で記念撮影。当時28歳の柴村は、チーム最年長で出場機会がなくとも、しっかりリーダーシップを示していた。

画像11

 ラトビアから同じバルト三国のエストニアに移動。同国の国内リーグ「メスタリリーガ」を初めて取材する。トップリーグとは思えないほど、何とも牧歌的な雰囲気。人工芝のピッチに最初に登場したのは、ボールパーソンの女の子たちだった。

画像12

 この日のカードはJKノーメ・カリュ対FCクレッサーレ。タリン郊外を本拠とするノーメ・カリュは、トップリーグに昇格して4シーズン目で、常に優勝争いに絡む強豪。こちらがそのサポーター。「地味で大人しめのサポ」というのは、バルト三国共通なのだろうか。

ここから先は

1,874字 / 7画像
スポーツと旅を通じて人の繋がりが生まれ、人の繋がりによって、新たな旅が生まれていきます。旅を消費するのではなく旅によって価値を生み出していくことを目指したマガジンです。 毎月15〜20本の記事を更新しています。寄稿も随時受け付けています。

サポーターはあくまでも応援者であり、言ってしまえばサッカー界の脇役といえます。しかしながら、スポーツツーリズムという文脈においては、サポー…

よろしければ、サポートをよろしくお願いします。いただいたサポートは、今後の取材に活用させていただきます。