人目を気にする社会
日本は道徳的な社会だ。
法律で強制して道徳的なのではなく、「人目を気にする」ことによって道徳的なのだと思ふ。
人目を気にするといふ言葉はあまりいい意味に使はれない。「人目など気にしない」ことによって自分らしく生きられるとされる。
たしかに自分らしいかもしれないが、さうすると人間らしくはなくなる。
人間であること、いはゆる人間性といふたいそうな響きを伴ふ・人間にあって動物にない精神性のやうなものは、人目を気にしないことには顕現しない。
人目の無いところでは、人間は限りなく、本来の動物の姿に戻れる。
「神がゐなければすべてが許される」
彼ら彼女ら・キリスト者のいふ神は、動物としての人間から「精神性」を絞り出して濃縮した「人格」のことだ。
西洋人の「神」は、人格神である。
人格神とは、人間の精神性である人格を託した・「人に似せて造った神」のことだ。
この「人に似せて造った神」を共同で幻想することによって、「人目」は神からしか来なくなる。
その結果、個々の人間は他の人間の視線から解放される。人間は、「人目を気にしない」個人になれる。
「人に似せた神」をいただく社会では、個人が気にするのは神の視線だけだ。
他の人間からどんなふうに見られやうと気にしない。
日本人は、「人目」を預けるやうな人格神を持たない。
日本の神々は、人間に優るとも劣らず愚かしく滑稽で利己的で残忍だ。神格化の反対の擬人化された神たちだ。
現実の人間を超越して、身体性から自由になった「人格」として雲の上から視線を投げるやうな監視者ではない。
わたしたち日本人は、ひとりひとりがお互ひの監視者の役を担ってゐる。
だから、「人目を気にする」。
逆方向から考へると、他の人間が見てゐなければ、わたしたちは何でもできる。
だから、わたしは、個室に入れば排泄すら楽々とできる。
さらに、わたしが人類を滅ぼしたとしても、孤島に漂着すれば、もはや罪もなければ罰もない。
お互ひに「人目を気にする」。
これは、人目を神に預けるより、いいやり方だと思ふ。
なぜなら、科学が発達すれば、どんな人格神も死ぬからだ。
神が死んで、それでも人目を気にする社会を拒めば、神の目を科学に依頼するしかない。
アメリカの警官はボディカメラを携帯するやうになった。
これによって警官は自分が他人に対して取る言動のすべてを監視される。西洋人にとって神の目はごまかせなかったやうに、監視カメラの目はごまかせない。すべてが記録されてゐる。
日本人も「人目を気にする」ことをいけないことだと思ってゐる。
人目を気にすることなく道徳的にふるまへるシステムを求めてゐる。
今、監視カメラも無いのに無人販売所の品物を盗まないのは、わたしたち日本人が「人目を気にする」からだ。人目は心の中に入り込んで、「そんなことをすると自分に恥ずかしい」といふ感覚となってしまふ。
人目は、人間の精神構造の中に組み込まれて「私自身を見る目」となるほど心理的影響力を持ってゐる。だから、西洋人は「神」を考案して自分の内部に入り込まないやうにしたのだ。
そんな人目に換はるものとして監視カメラが日本にも増えて来た。
「人目を気にすることの弊害」ばかりが喧伝されるのは残念だ。もちろん、弊害はあるが、監視カメラ社会よりはましだと思ふ。
けれども、居眠り議員を撮影してYouTubeに配信したといふニュースがあっても特に驚きや非難の声も上がらないので、日本でも監視カメラの設置はこれからどんどんと増えてゆき、やがては「人目」と取って替はられるのだらう。
そのとき、わたしたちもやうやく、明治維新以来ずっとなりたくてたまらなかった西洋人になれる。つまり、男でも女でもなく・ひとりの自立した個人になることができるだらう。