いぢめについて
いぢめたいって気持ちは性欲と同じで人間なら誰でも持ってる。
いぢめの欲求の根源は攻撃性だから、まったくいぢめたい気持ちの無い人は、みつかると死ぬまでいぢめられる。
反撃するにして防御するにしても、或いは逃走するにしても、その場合には、その人の心の中に攻撃性が無ければならないからだ。
まったく攻撃性の無い人は、笑ひながら殴られ続けて、死ぬ。
「私にはありません」って言ふ人は、たぶん、今の日本には多いと思ふ。
人をいぢめたいなんて思ったことは一度も無い
と平気で口にする。
わたしも人前では言ったりする。
さう言っておかないと、魔女狩りに遭ふからだ。
かつてキリスト教世界では、性欲は害悪の温床であり、抑へ込まなければ社会が崩壊すると恐れられてゐた。
そんな世界では、女性には性欲などなく、もちろん、性的快感も感じないといふウソを、女性たち自身も語ってゐた。
それと同じ、欺瞞よる隠蔽が、今の日本では、いぢめたいといふ欲求に対して、行はれてゐる。
最近は、加速度的に
いぢめる機会
が奪はれてきてゐる今の日本。
いぢめたいといふ、人間として自然な欲求を抑へこんでしまって、溜まる一方の欲求。そして膨れ上がる不満。
この溜まりに溜まった欲求不満は、破裂する前に、なんとか捌け口がないかと、いつも必死で探してゐる。新聞テレビ、インターネットの中に、求めてゐる。
何をか?
といふと、
いぢめをやった人や団体
これらを見つけたときに、
たまりにたまった、いぢめたいといふ人間の自然な欲求が、一挙に爆発する。
最近では、ジャニーズ事務所とか宝塚の宙組とか。
いぢめではない。
批判だといふ人もゐるだらう。
なんで当事者でもない人が、そんなに関心を持つのだらうか?
世の中をよくしたいから?
いぢめられたことがあるから?
なんにせよ、
非難や批判は、気持ちがいいはずだ。
気持ちわるくてうんざりすることなら、そんなに熱心に毎日続けるはずがない。
感情的で激烈な非難や相手の存在を根底から否定する批判とは、社会的に容認される形に加工した、いぢめだ。
これからも、かういふ、いぢめた人や団体をみんなでいぢめることは、続く。
いぢめたいといふ欲求を切り離して生きることは、人間にはできないから。
できることといへば、
ますます剣先のやうな鋭さを持っていぢめた人や団体を、何度も何度も、みんなで、刺し貫くことくらゐだらう。
さうしていぢめを見つけて、いぢめた人や団体を成敗して、いぢめを生み出す活動や場所や関係を一つ一つ無くしていくにつれ、
私たちの欲求不満はむしろ高まってゆき、耐へ難いものとなり、かつて偽善的な性道徳に縛られてできもしない禁欲を強いられた人たちのやうになってしまふのだらう。
つまり、どこかにいぢめがないか、どこにいぢめた人や団体が隠れてゐるのか、そんなことがいつも頭を去らない暮らしを送るやうになるのだらう。