自分の人生
この記事の感想。
自分が死んで何もかもが消えてなくなる。
それをなんとかしたい。
せめて自分を取り囲んでゐたモノを誰かに託して残して置かうとする。
「これを見た人が自分を思ひだす」といふ思惑。
人は死んでも誰かの心に記憶として生き続ける、とかいふ、わたしには意味のわからない考へ方もあります。(その記憶を持つ人が死んだときがほんたうの死だといふ映画がありましたね)
そんな心理だらうなと、わたしは、思ひました。
死んだら、死ぬ。
自分しかない人にとっては、なにもかも終はりだ。
そんなあたりまへのことを、今の(わたしを含めた)老人たちは、むしろ老人になったときに、受け入れられなくなってゐる。
これは、ちょっとした生き地獄だとわたしは思ひますね。
一神教とは、自分をGodと直結させることによって、自分を唯一無二の存在、つまりは神の似姿としての個人にするための宗教だった。
この一神教によって、生きることは、他の誰とも違ふ自分といふかけがへのない個人と、その個人を無にしてしまふ死との戦ひとなった。
死からの復活といふことで人を勧誘する一神教なんてものを必要としなかった、温帯の島国である日本の風土。
そこで暮らす民族は、群れとして生きて群れとして死んでゐた。
このことを敢へて言葉にすれば、『葉隠』の例の有名な一節となるでせう。
武士道といふは、死ぬ事と見つけたり。二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわつて進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。
二つ二つの場にて、図に当るやうにわかることは、及ばざることなり。
我人、生きる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし。
若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危うきなり。
図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。
毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。
群れとして暮らし群れとして死ぬ、そんな時代には、もう、なにが起きても戻らないから、この先は、不老不死の最先端医療によって「自分」を維持するしかないでせうね。