大多数の人たちと、不安でたまらない人たち

 人間が生れ落ちてから、生涯、求め続けるのは、安全と安心だと思う。
 というのも、人間が生まれてくるこの世界は、自然環境であるから、生物にとっては常に死の危険に満ちている。
 はやい話が、人間の身体そのものも自然であるから、いつなんどき、それ自体が死を生み出すかわからない。それを知っていて、実のところ常に不安を感じているから、わたしたちは年に少なくとも一度は健康診断を受け、医者に言われたとおりにして、医薬品で病気が治ると信じているのだ。

 健康診断で何も問題が無ければ、一時の安心を得られる。慢性的な不安の曇り空の一角に、ちょっと青空が見える。けれども、少ししてもう一度見上げたら、もう、空は一面、不安の薄曇りに覆われている。
 降りはしないが、晴れもしない。
 そういう人生が続く。
 人生は、最後の土砂降りまで、そんな日が続くのだ。

 コロナ禍は、安全と安心を求めて生きる人間の姿をさらけ出させたと思う。
 ワクチン接種をする人々にしろ、接種を忌避する人々にしろ、求めているのは同じで、安全と安心だ。
 ワクチン接種をする人たちは、コロナに罹って重症になったり死んだりしないように、ワクチンを接種する。
 接種を忌避する人たちは、ワクチンの副反応や後遺症などワクチンの悪影響で健康を害したり死んだりしないように、ワクチンを忌避している。

 大多数の人は、なんとなくテレビや新聞、厚生労働省などといった公的機関や大学教授・医師といった肩書の専門家のいうことを正しいと思って、それで安全と安心の欲求を満たせるのだろう。

 たぶん、少数派だと思うが、安全と安心の欲求が平均より強くて、絶対的な安全と安心を求める人々がいるようだ。
 そういう人々の一方は、ワクチンは絶対に効果があると信じたい(打てば死なない)し、もう一方は、ワクチンを打てばみんな死ぬと信じたい(「打たなければ死なない」ことになるからだ)。

 わたしたちがお守りを持つのは、そうすれば安全と安心を保てるだろうと思うからだが、お守りに対する期待は、人によって違う。
 おそらく、大多数の人は、お守りが効くとは思っていないが、絶対に効かないかというとそうでもないかもしれない、それくらいの気持ちでお守りを持っていると思う。

 絶対的な安全と安心を求める人々は、お守りに関しても、何か一定の儀式を定めて、月に何回どこそこの神社仏閣にお詣りする、仏壇で拝む、神棚をしつらえる、十字架にキスをする、などなどの「そうすることによって加護が確保できる」という信念を持っている。

 これを、昨今のマスクに関して言うと、大多数の人は、マスクをしたら感染しない感染させないと信じているからマスクをしたのではない。
 みんながしているから、なんとなく、自分だけしてないと浮くから、そんな理由でしていた。

 絶対的な安全と安心を求める人々は、一方の人々は、誰かがマスクをしていないと不安でたまらなくなって注意したり、怒鳴ったりしていた。
 そして、もう一方の人は「外そう、外そう」と言っていた。
 マスクにはなんの効果もないからというのが、その理由だった。

 絶対的な安全と安心を求める人々、その一方の人々は、きわめて科学的な正しさを求めることがある。
 お守りなどをありがたそうに身に着けていると、「そんなものが効くと思っているのか!」と怒ったり、「この科学時代に、バカがまだ宗教だの習俗などに毒されたまま生きている」と盛んに嘆いたりする。

 わたしたちが、何事につけ、意見を持ち、自分の考えを持とうとするのも、それが人間の「安全と安心の確保」の方法の一つ、それもかなり効果のある方法だからだ。
 宗教を信じ込んで一般社会から浮いてしまうような人は、認識による安全と安心の確保という方法に憑りつかれてしまった人だ。

 ○○食品を食べると○○病になるという食べ物と病気の方程式に基づくダイエット(規定食)にはまる人たちもいる。身体によくないものを避けていいものを食べるにこしたことはないが、少数派が信じるのは「〇〇食品を食べなければ〇〇病にはならない」という救いだ。
 そういう人も、絶対的な安全と安心を求めるという心的回路に落ち込んでしまった人だと思う。

 人間は生れ落ちてから、生涯、安全と安心を求め続ける。
 これは、裏返して言えば、生まれてから死ぬまで、なにかしら、ずっと不安だということだ。
 その不安を一時的にでもまぎらわすために、太古の人間は踊ったり歌ったりした。
 今は、科学技術のおかげで、不安を一時的にでも払しょくする方法は、ほとんど無限である。
 それでも、SNSは、最も人気のある方法の一つだろうと思う。

 大多数の人は、不安を感じることから逃げて、絶対的な安全と安心を求めるという回路に落ち込むことなく、人生を過ごすようだ。
 と言っても、現実の中にある不安としっかり向き合って果敢に生きている、というわけでもない。
 うっすらとした不安の中で、それなりに、楽しみを見出して日々を生きている。
 見ようによっては、なかなかしたたかである。健全な民衆、地に足をつけた庶民といった言葉を使いたくなる。


 こういう大多数の人たちは、絶対的な安全と安心を求めるという心的回路に落ち込んだ人たちから見ると、視野が狭く、鈍感な人々である。

 人類は眠っているとグルジェフも言っていたが、目覚めた人から見れば、大多数の人たちは、目をあけたまま眠っているように見えるのだろう。

 絶対的な安全と安心を求める少数派から見れば、大多数の人たちは、まさに大衆であり、愚民である。

 歴史を振り返れば、絶対的な安全と安心を求めるという心的回路に落ち込んだ人から、いわゆる歴史を動かした偉人や英雄や改革者などが出て来たようだ。
 偉人たちは、大衆のように現状の中に埋もれて現状を見過ごすことができなかったのだろう。このままではだめだと思って走り回った人たちだ。

 おそらく、人間は、生まれつき絶対的な安全と安心を求める少数者(つまりは不安でたまらない人たち)が生まれてくるような遺伝子の仕組みになっているのだろう。その少数者は、種の存続の危機にあたっては大きな役割を果たすだろうから。

 
 


 


 



 

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