女装クラブ
この記事↑を書いて、自分を振り返るきっかけになりました。
記事の中で、女装クラブに行ってゐたことに触れました。
中年にさしかかる年齢のとき、なんだか自分は「やっぱり、ほんたうは女なんじゃないのか」といふ思ひがムクムクと湧いてきました。
これまで何度か書きましたが、わたしは幼稚園生くらゐまでは女の子みたいな顔をしてゐたので、そのときの自分に帰りたいといふ思ひがずっと残ってゐます。今でもありますね。
まはりの大人から「可愛い、可愛い」と言はれる状況はとても嬉しかったです。特に、わたしの大好きだった幼稚園の先生から「しょうちゃんは、女の子みたい。やさしくてかわいいね」と言はれると、大袈裟に言へば、恍惚となって気を失ひさうになるくらゐ、幸せだった。
母親に疎まれてゐたこともあって、たぶん、幼稚園生までの記憶を、理想的なものに無意識で加工してしまってゐるのでせう。
ふりかへって「自分が女の子みたいだったとき」は、自分は幸福の極みだったと、思ひ込んでゐるところがあります。現実にはそんなわけがないのですが。
女装クラブに行って、その思ひ込みに気づきました。
苦い自覚でした。
結局、なけなしの貯金をすっかりはたくほどの出費を重ねて女装クラブに出入りはしたものの、一度も化粧も女装もしませんでした。
美しかったりさうでなかったり、可愛かったりさうでなかったり、やさしかったりさうでなかったり、女らしかったりさうでなかったり、老若のいろいろな女装クラブの会員と知り合ひになり、たくさんお話をして、なんか、諦めがつきました。
わたしにとっての女装は、「女になりたい!」といふ願ひといふより、女の子みたいだった頃の自分に戻りたいといふ思ひだったやうです。
とりわけて女といふのではなく、性別にかかはらず、とにかく、
可愛い、
きれい、
愛らしい、
優しい、
繊細。
それらが、女装といふ言葉にまつはるイメージでした。
実際に女装を趣味にしてゐる男性たちと会ってみると、あたりまへだけど、「大人の女」を目指す人がほとんどでした。
中年まぢかの大人の男が、どんな化粧をしてもどんな服装をしても、十歳以下の女の子になるなんて不可能。
わたしがその時にわかったやうな気がしたのは、男性とは欲望する主体であり、女性とは欲望される客体だといふこと。後に、サルトルも同じやうなことを書いてゐるのを知り、男の考へることは同じなんだなと思ひました。
常に主体者として欲望することしかできない男性が、男性たちの視線を浴びる・欲望される女体となりたいといふ欲動が、女装に向かはせてゐるやうに見えました。
女装の動機は、人によっていろいろなんでせうが、わたしの場合は、これ。
つまり、理想化したマボロシの子供時代に戻りたいといふ悲願。