これからも、女湯では、(大人の)男性〇を見ることはない・・・はず


 妻が
「心が女性なら、
女性が何を怖がるか、何を嫌がるか、どんなときに不安になるかがわかるはず」
と言ってました。

 だから、女湯に、男性器があるとしてもそれが見えるままにして入ってくる「女性」はゐないだらう。
 両性具足で、自認する性は女性の人もゐますが、さういふ人は、女として女湯に入って来たとしても、下腹部は隠して入ると思ひます。
 別に恥ずべきものが身体についてゐるわけではない。

 漫画家の大島弓子さんは、エッセイ漫画でご自分が入院したときのエピソードの中で、性器は「恥部」なんかぢゃない、「神部」だとおっしゃってました。
 「聖器」といってもいいかも。

 さうだと思ひます。
 そして、包括的性教育では、そんなロジックで、子供を教育するのかもしれません。
 でも、待ってほしい。
 セックスも性器も恥ずべきものではないだらうが、排泄だって神様からいただいた神聖な生理です。決して「恥ずべきものでもなんでもない」。

 ただ、排泄中といふのは、最も攻撃に弱いので、誰にも見られたくないのが動物としての本能。
 トイレは身を守るためにある。

 それでも、排泄は、近くに他人がゐるときは、必ず、羞恥を伴ふ。
 それを無いものとするのが、教育。

 かういふ教育の方向でいけば、人前でキスすることからセックスすることまで、現在、恥ずかしいと思ってゐることを、「恥ずかしいと思ふはうが恥ずかしい」と感じる生徒が増えてくる。

 教育は、オモシロイ。子供が自分の思ひどほりの価値観を持つやうになる、大人にとって、これほど自分の存在を実感できることはない。

 子供を自分の思ふやうな人間に改造したい人が先生をやりだしたら、やめられないだらう。
 特に、包括的性教育によって、子供たちの意識を変えてゆくのは、まるで神であるかのやうな万能感を感じるに違ひない。


 話が逸れました。
 性器は神聖な器官であり、愛の器官、特に女性の場合、生命を育む産み出す聖なる器を兼ねてをり、まさに天使の羽に相当する。
 極めて繊細である。
 だから、人目にさらすのを恐れるために、わたしたちは羞恥心を持つ。

 男性の性器も、聖なる器と言ひたいが、「うつわ」状ではない。
 棒状である。槍みたいに突き刺すやうに出来てゐる。攻撃性に満ちてゐる。
 男性に悪気がなくとも、それを見た女性が脅えるのは当然だ。

 男性器のある人が女湯に入ってきたら、無防備なときに、刃物を持った人が目の前に現れたときと同じやうな恐怖を感じても不思議はない。

 けれども、わたしは楽観してゐる。
 トランス女性を信じてゐる。
 きっと、いはゆる生物学的女子たちが、女湯で、(大人の)男性器を見ることは無いはず。
 「男性器を持つ女性」は、まはりにゐる全裸の女性たちの目に触れないやうに、厳重な備えをして入浴してくれるはず。

 それが、女らしい心遣ひだと思ふのだが、女らしいなんて言葉を使った時点で性差別?


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