生産性という言葉について
ネトウヨだと自称しているのに、これまで、右翼らしい記事を書いてない。自分がなぜウヨクなのかという自分語りばかりだった。わたしは承認欲求のかたまりである。
今回、進歩的で人権を大切にする人たちの間で悪名高き杉田水脈議員を擁護しようと思うので、これが初めての右翼的言論活動となる。
以下、右翼的言辞の炸裂なので、あたまのわるい人の言うことは聞きたくない人はここでやめてください。
さて、杉田水脈議員のことはよく知らない。写真を見ると女性に見えるが、ジェンダーは名誉男性なのだそうだ。
ともかく、雑誌に寄稿した論文の中で「生産性が無い」という言葉でLGBTの人たちの心を傷つけた人だと聞いている。その論文も読んでない。←それでよく擁護するとか言えるな。
その雑誌は、杉田氏の論文のために廃刊となったそうだ。
どうして廃刊なのかわからないが、まあ、めでたし、めでたし。
いや、ネトウヨとして、それで終わってはいけないので、
「生産性」という言葉だけを取り上げて、杉田議員を擁護したい。
どうやら、杉田議員に対する非難も、
「生産性」という言葉だけを取り上げて、なされたようなきらいがある。
というのも、杉田議員の主張していることは間違っていないとして擁護する保守ビジネス家たちも、はんで押したように
「生産性という言葉は不適切だった」
と言っている。
しかも、ロジックとして整合していないという意味で不適切ではなく、人間について(具体的には子供を産むカップルかどうか)について、生産性という言葉を使ったのがいかん、許されない、人を傷つける、ということらしい。
似たようなことが前にもあった気がする。確か、女性の出産年齢について話すときに「女性を産む機械とすると」というような表現を使って、まさに、世間から、人でなし、人非人、死ねばいいのに、というくらいにめちゃくちゃに非難された政治家がいた。
この時も、「言いいたいことはわかるが、表現としては許されない」というようなご意見が保守ビジネス家たちから出ていたと思う。
それは無理もない。
差別用語を使う、あるいは差別者(レイシスト、セクシスト、優生思想家、移民排斥者、難民受け入れ反対者、多文化共生反対者、アイヌ先住民族説を疑う者、アメリカから頂戴した自由と民主主義に対して恭順・尊崇の念が無い者など←なんかわたしの自己紹介みたいになってしまったが)だとされると、食べていけなくなる売文業界である。
近未来には、差別者と認定されると、かたぎの一般市民としても生きていけない日本になるだろう。よかったですね。
生産性の話にもどると、この語を使った専門用語に、生産年齢というものがある。
「生産性のある年齢」というくらいの意味だ。
産業社会においては、社会に出て、給料の貰える仕事、お金の稼げる仕事をして、主に納税を通して社会に貢献できることを生産性という。
その生産性を発揮している年齢が、十五歳以上、六十五歳未満。
生産年齢を十五歳以上六十五歳未満であるとするのは、暗黙のうちに、
子供には生産性が無い。年寄りには生産性が無い。
と言っているわけだ。
人間を、生産性(この場合、金儲けができること)があるとかないとかで分類したり、評価したりするのがよくないのなら、この生産年齢という専門用語は使用禁止するべきだろう。
なんだかヘリクツをこねてやがると思ったはずだ。
ネトウヨのやる杉田議員擁護なのだから、それでいいのだ。
あたまのいい保守派とは違う。
マスコミなどでは、いろいろな言葉を差別用語とし、使用禁止にしているようだ。
どうやって差別用語として決めているのか知らないが、言われて「心が傷つく」という基準ではどうだろうか?
わたしについて、人はいろいろな表現を使える。
「高齢者」「年寄り」「お年寄り」「老人」「ご老体」「おじいさん」「おじいちゃん」「じいさん」「じいちゃん」「じじい」
これらについては、事実無根の誹謗中傷だとすることはできない。
誹謗中傷を辞書でひくと、根拠のない悪口とある。
ただ、最後の「じじい」は、事実無根の誹謗中傷ではなく、むしろありのままの、自然主義的表現であるが、なんだか、使ってほしくない気がする。
では、差別用語(不当に貶める言葉)として人が使えないようにしてほしいかというと、そうでもない。わたしが誰かを「じじい」と書きたいときに、それが差別用語とされていると困るからだ。
「じじい」が使えないと、わたしが日記を書くとき、
「いけ好かない、気取り屋の、はやく死ねばいいのにといつも思う高齢者の△△〇〇さんが、今日もやってきて・・・」
というような、細かい表現が必要になる。
それより、「あのじじいが今日もやってきて」と書いた方が、すっきりする。
長い時間を超えて残っている日本語には、「じじい」という一単語が、
いけ好かない、気取り屋の、はやく死ねばいい
といったような言外の意味を拡大投射していけるように、それぞれの語の中に、豊富な含意(connotation implication)を持つものがたくさんある。
そういう言葉の多くは、人を罵るときに使うと、とても威力を発揮する。わたしたちの心に響くからだ。
ニュートラルな言葉と思っているものでも、いわゆるTPOによっては、人の心を傷つける。
先日、わたしはエレベーターに乗っていて、見知らぬ可愛らしい子どもから、「おじいさん、お先にどうぞ」と言われて、とても傷ついた。
マスクにサングラス、そして粋な帽子を被り、ボマージャケットに黒のジーンズといういでたちだったのである。けれども、子供には簡単に、先に降ろしてやらないと閉まりかけたエレベーターのドアに挟まれて動けなくなる「おじいさん」だと見破られたようだ。
わたしは、「バカ野郎、年寄り扱いするな!」と子供に怒鳴りつけ、子供を先に押し出した。
というようなことはしなかったので、安心してください。
おじいさんらしく何度も何度もしつこくお礼を言いながら、さも嬉しそうに降りたのである。
けれども、「ああ、どんなに顔を隠しても、どんなに若作りしても、おれはおじいさんに見えるんだな」という思いが胸から突き上がってきて、電信柱の陰で声を出して泣いた。
スタイルだけは五十代のつもりだったので、とても、傷ついたのである。
言葉は、どういうはずみで、人の心を傷つけるか、わからない。
だから、杉田議員はもっと配慮するべきだった。
・・・という話で小さくまとめてしまうと、お互いに困ると思う。
思っていることを言えない、書けないようになる。
差別用語、人を傷つける表現に配慮しつつ書いている新聞雑誌の、いわゆるライター文は、日本語としては血が通っていない。
自縄自縛でほとんど仮死状態のSM文体が、このnoteの世界にも満ちている。
では、わざわざ人を傷つけようとして言葉を使うことだけはやめよう、という優等生の言い分はどうだろうか?
「頭、わるいですね」とか「高齢者が居座っているから日本はだめになる」とかいう言い方は、攻撃として使われている。ダメージを与えようとしてる。論破しようとしている。相手はしかめつらをして、傷つくだろう。それを承知で、賢い人たちは使っているのだ。
そして、知的インフルエンサーのファンたちは、ふだん態度のでかい大学教授や評論家が、ひろゆき氏やホリエモン氏に論破されて、傷つく様子を楽しんでいるのだ。
こういう使い方を、禁止するべきだとは思わない。
禁止すると、言論の自由が損なわれるからだ。
はっきりさせておきたいのは、言葉による暴力、誹謗、中傷、そういうものは厳然として存在する、ということだ。
暴力は取り締まらなければならない。
その場合、言葉を取り締まるのではなく、言葉を暴力の道具として使う人間を取り締まるべきだと思う。包丁を禁止するのではなく、包丁で人を殺傷したり脅したりした人を逮捕するべきだということだ。
例としては、街頭演説に対して、拡声器で言葉を投げる人などは、演説の自由を封じる暴力として、言葉を使っていると思う。これは、YouTube動画で、右翼みなされる人たちの反移民を主張する街頭スピーチや参政党の街頭演説に対する妨害活動(言論活動であるとヘイトスピーチを許さないつもりのサヨクやアンチ参政党の人はいうのだろうが)について感じたことだ。
杉田議員の場合は、どうだろうか?
杉田論文に憤った人には、あれこそ言葉による暴力だと言う人も多いだろう。
けれども、書かれた言葉から暴力を受けたという証拠は必要だと思う。拡声器から出る言葉とは性質が違うからだ。
杉田議員の論文を読んでPTSDになったという診断書を書いてもらうのも一つの手だと思う。
それを書いてくれる精神科医は、必ず、いる。
ただ、そうすると、今後、診断書があるから心を傷つける言動があったということになる。わたしにも、お金を出せば診断書を書いてくれる精神科医には何人もこころあたりがあるから、このわたしの主張に対して反論のコメントをしたら、めんどうなことになるよ。
そんな社会になったら、お互いに、住みにくいのではないだろうか?
やはり、社会的不利益を被ったこと、それを裁判になった場合でも証明できること、それが言葉が暴力の手段として使われたという判断の基準にしておくのが無難だと思う。
ということで、結論としては、こうだ。
杉田議員の生産性という言葉については、批判はあってもいいが、非難はおかしい。
論理の展開として、あるいは事実関係として、生産性という言葉は誤用だという批判はあっていい。多様な見方が大事だ。
けれども、そんなことは言うな、そんなことを言うやつは人としてダメだ、差別者だ、杉田はやめさせろ、雑誌は廃刊だ、ということなると、それはおかしい。