楽観的であることに関するノート
わたしはものごとを悲観的にとらえるほうだが、それでも、年老いて来ると、気がつけば、あれやこれやと楽観的なものの見方をすることが増えている。
悲観的であることのひとつの理由は、これから起きることについて悲観しておくと、わるい結果が出た時の保険になると考えているからだと思う。
少しであっても先のことは正確には予想できない。「絶対に大丈夫だ」と思っていることでも、実際にどうなるかは、そうなってみるまでわからない。
強迫性障害のわたしの心配は、とどまるところを知らない。ちょっと先に気になることがあると、その結果に対しては、躊躇なく悲観的に考えてきた。できるうるかぎり、全力でよくない未来を予想した。そうすれば、最悪の場合でも衝撃が少なく済むと思っていたのだと思う。
少しでも希望的、楽観的な予想が出て来ると、それを叩きつぶした。もし、そんなものを本気にして最悪の未来が来たら、わたしはその瞬間に恐怖のあまり死んでしまうだろうと恐れたのだ。
ところが、このごろは、悲観するのを忘れていることがある。たぶん、面倒になってきたのだろう。もし、人間にとって死が最悪のものなら、老人であるわたしの未来は最悪以外の何も無い。わざわざ、それを予想して悲観しても仕方がないという感じがしてきているのかもしれない。よくわからない。
こう考えてみると、元気に前向きに悲観できるのは、希望を抱けるうちであるような気がする。若い頃は、死の迫っている老人たちがのんきな顔をして生きいるのが不思議だった。けれども、最近、鏡を見るたびに、わたしも気がつくと若い時よりはずいぶんのんきな顔になっていて驚いている。
この先、わたしがほんとうに楽観的になっていくのかどうかは予想がつかない。わたしは、自分ののんきな顔が気に入っている。こんな顔をするなんて思ってもみなかった。ちょっと嬉しい。
だから用心しておこう。もうすこしさらに歳を取ると、やはりわたしの元々の性格にふさわしい、陰鬱な老人になるのかもしれないと悲観しておくことにする。確かに、老人には大方ののんきな顔にまじって、たまにはおそろしく陰鬱な顔やなにやらとても憤っている顔、妬んでいる顔、憎んでいる顔などがある。
そのうちのひとつは未来のわたしの顔かもしれない。こう考えると、まったく悲観的な気分になる。
ただ、理屈としては、楽観できるのは、絶望を知っているからだ。だから、人間一般の現象としては、より年老いるにつれ、じわじわと、より楽観的になるはずだ。