自分で考えて判断する
前へならえ!
右向け右!
といった号令に従う訓練、今も学校の体育でしているんだろうか?
大人になってから、そんな号令に従えと言われたことも使ったこともない。
勿論、社会に出てから使わない勉強は他にもたくさんある。それに意味がないとは思わない。
正解がない(見えない)問題に向き合いながら生きる上で、問題を解く訓練として、また最低限必要な知識を身に付けるために、学校の勉強は大切なことも多い。
しかし、訓練をはじめとする、「言うことをききなさい!」という指導には、大きい弊害があると感じる。
指定された制服を着てきなさいというのも、その一つ。
様々な場面で、思考する機会を奪う。
スポーツにおいて、事細かに指導されれば、短期的には上達するかもしれないが、中長期的には成長しなかったり、その競技をやめてしまったりすることもあろうかと思う。
スポーツと体育は違う。スポーツは楽しむものだと思う。
当事者が競技を続けながら成長するためには、「好きになって、自ら上手くなりたいと考えて、工夫しながら練習すること」が必要でしょう。
外からは見えないけれど、自発的にやるか強制されてやるか、それによってモチベーションは全然違う。
たとえば、サッカーのドリブルを上手にやろうとしたときには、ボールばっかり見ないで顔をあげなくてはいけない。それを指導者がどう伝えるか?
「顔をあげろ!」と叫ぶのは最も簡単に伝わる方法だが、それでいいのか?
何のために?や、そうするとどうなる?
といったことを何も考えず従うと、どうなるか?
全くボールを見ないでドリブルするのが良いのか?相手選手が向かってきたときだけ顔をあげればいいのか?いや、実は相手選手が来たときこそボールをよく見て正確にコントロールし、間接視野で相手選手をとらえる方が、プレーの判断がしやすくなるのか?
きっとそんなことまで、想像もしないだろうなと思う。
答を押し付けられていれば、一般的な選手にはなれるかもしれないが、それ以上のドリブラーには辿り着かないだろう。
悩んでいないから、身に付かない。
宿題で与えられた問題集に、回答集から答だけを書き写すようなものだ。
「ドリブルに必要なことは何?」
「ドリブルの後には何をするの?」
「そもそも何のためにパスじゃなくて、ドリブルするの?」
といった目的を考えさせて、その上で理想のドリブルを想像させる。
そういうところから、ドリブルに必要なことを考えたり、その実現方法を考えたりすると、間違ったことに自分で気付ける。それを正しながら成長すると、楽しいし、身に付く。
こういうプロセスがすごく大切だと思う。
ああしろ、こうしろ、言えば早いかもしれないが、思考する機会を奪う。
教えるということは、「教え」ずに機会を与えることだと思っている。自分で悩んで、目的を確認して、方法を導き出すことが、勉強だと思う。学ぶということだと思う。
学ぶという言葉は、真似るから来ているらしい。
見様見真似で始めて、試行錯誤する。その中にたくさんの判断が入る。それを試して身に付けていく。
そのプロセスを、もっと日本の教育に取り入れてもらいたい。学校だけでなく、家庭においても。
自ら考えて、悩み、やり直し、そして決断する。誰某に言われたから、こんな結果になったんだと責任逃れするのではなく、自分で決断する。
それが、これからの社会でAIに負けずに生きていくために、求められると思う。
知識は、幾らでも手に入る。
知識を使いこなすためにどうするか?
モチベーションの高め方と維持の仕方、失敗を乗り越える強さが必要だ。
目の前の問題を解くことの喜びを知るためには、失敗もついてくる。でもその失敗を、間違いの発見と捉えて、先に進むことが大切だと思う。
問題を解くことで自信がつく。そして楽しさに繋がる。
叱るのではなく、教え込むのでもなく、ヒントや機会を与えて見守る教育が、必要だと思っている。
自己の責任意識は、自分で判断するから生まれる。
政治家に任せるから、政治家を批判して終わりになる。
自分には何ができるか?そのために何をすればいいか?皆がそういう思考をするようになれば、今、この時期にどうすべきか分かるはずだ。