シュートを外した本人が一番悲しい
同僚が、ミスをした協力会社に対して、そのミスを厳しく指摘していた。
指摘していた内容は全て正しい。正しいことを伝えているんだから、自分には問題なんて何一つない。そういう気持ちなんだと思う。
ふと少年サッカーのコーチをしていたときのことを思い出した。
サッカーのシュートは、あんなにゴールが大きくても、実は難しい。だから対戦相手とかなりの実力差がなければ、1試合に何点も入るものじゃない。
つまりシュートチャンスも少く、そのチャンスが来るとそれなりに緊張するものだ。そのチャンスに外したとなれば、かなり痛い。
小学生はよく、外した選手に向かって「しっかり狙って!」とか、「ちゃんと打てよ!」等と声をかける。
外した本人だって狙ったはずだけどね。そして外した本人が一番悲しく悔しい思いをしているんだけどね。
次にチャンスが来たとき、その選手はどう感じるだろうか?
今度はきちんと狙わなきゃ!
今度はもう外せないぞ!
ガチガチになり、日頃のパフォーマンスなど、出せるどころじゃない。
指摘しても、責めても、解決には繋がらないんだよね。
こう言ってみたらどうだろう?
「今のシュート、難しいところから良く打ったね!ナイスチャレンジ!入らなかった理由はなんだろね。次は何を直せば良さそうかな?」と。
一切責めない。そして、一切押し付けない。
失敗は、考えるチャンス。成功のための準備。
よく考えて、改善することでこそ、シュートの確率は高まっていくんじゃないかな。嫌なプレッシャーで汗をかくのではなく、また次に訪れるチャンスの準備をする。
翻って、仕事のミスも同じ。ミスを責めても仕方ない。ミスがあったという事実を伝え、再発しないように考える機会を与えればいい。
ああ、この人のためにも気を付けようと思えば、きっと変わる。人格を責められたと感じた人は、もう味方にはなってくれない。
きつくきつく投げたブーメランは、きっと投げた人のところへ戻ってくる。そうじゃなくても、日々、一人でやれることなんて限られている。味方がいれば、サボれる訳じゃない。でも、味方がいれば、居ないよりもいい仕事ができる。
そう思うんだ。
仕事のミスも、シュートも、好き好んでそうする人なんて居ないんだから。
明日は我が身。