開 藤太郎

明治5年(1872)-昭和18年(1943)濵村 彫刻師(刀號:開正藤)

麹製造業 開 友二郎の長男として生まれる。
長じて、飾磨の二代目黒田正勝(数年間生穂濵村に滞在した)の一番弟子となる。黒田一門中興の祖と言われた。
その技巧は超絶且つ繊細で、また遊び心も兼ね備えており、見る者を飽きさせない。
それ故現在でも多くのファンがその彫刻を見るため祭に訪れる。
※刀號については、開生珉参照

独立してからは、生穂のだんじり製造業 大歳茂平の「大歳屋」と組んで数々のだんじり彫刻を遺した。

岸和田市下野町地車(大正6)をはじめ、同地方で製作した地車彫刻は9台確認されている。現在は新調のため開正藤の彫刻ではなくなってしまった組もあるが、依然大阪・岸和田でも人気の彫刻師である。
淡路島内でもダンジリはもとより寺社仏閣などに数多くの彫刻を遺している。
生穂のだんじり彫刻は濵組が黒田正勝の作で、それ以外は彼の作である。
その殆どは大正前期~中期に製作されたもので、賀茂神社の春季例大祭では現在も変わらぬ姿(彫刻)を見ることが出来る。残念ながら台数は減ってしまっているが…。
社寺彫刻では、遺作の八浄寺山門の彫刻は力作である。

因みに、生穂には他に開姓は無い。
郷土史研究の一環から洲本城下町家の地図を見たことがあるが、たまたま洲本(旧)鍛冶屋町に開姓を確認した。
家業は麹製造業だったが、それ以前は鍛冶屋だった可能性も考えられるが…。現在調査中である。


引用元:「津名町史」など
筆者が加筆修正した部分が含まれます。

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