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開 賢次

明治29年(1896)-昭和43年(1968)濱村 彫刻師(刀號:開 生珉など)・生穂町町会議員など

彫刻師開藤太郎の長男。彫技を父に学び、17歳で父業を継いだ。
父であり師でもある開 正藤と並び称されるその腕前は「開の宝刀」とも評される。

淡路の檀尻彫刻等の他、岸和田市中町地車ほか岸和田・貝塚方面で9台の製作が確認されている。父正藤との共作も含め、島内外に数多くの彫刻を遺している。
生穂では八幡宮(拝殿蟇股)「眠り猫」が有名である。

後年は病弱のため彫業を続けることが出来ず、町会議員として生穂行政に貢献した。議員活動の傍ら、趣味としては彫刻を楽しんでいた。文筆の達人でもあり書画も遺している。趣味は絵画・小鳥飼育。

開親子の超絶技巧的な彫刻は、祭が盛んな大阪でも絶大な支持を得ており、近年益々その価値が高まっており、島内の(開彫)ダンジリが売却されれば、その殆どの彫刻は大阪に渡っている。
生穂・淡路の宝が他所に渡っていくのは時代とはいえ悲しいことである。


刀號について

小生は昔、噺家の命名についての話を聞いたことがある。
例えば、笑福亭一門である”鶴瓶”の名前は、師匠である笑福亭松鶴の”鶴”の一字を貰い、”鶴””瓶”となった(昔に先代の鶴瓶もいたらしいが)。
鶴瓶も弟子に一字与えるが、その際は師匠に貰った”鶴”ではなく自分の”瓶”を与えて”笑””瓶”となる。これが噺家一門の命名だという。

これを踏まえて刀號を見ると、黒田”正”勝→開”正”藤→開生珉?となってしまう。上記で考えれば”正”は師匠に貰ったもの・”藤”は本名の藤太郎から来ているので、実子には与え辛かったのではなかろうかとも考えられる。しかし、他の弟子に”藤”を与えたこともないようなので、噺家の命名とは法則が違うようである。

では、「生珉」は何処から来たのか?
現在、確実な理由が判明していないため、どれも予想の域を出ない。
以前に「生珉」について、H氏は「賀集珉平から取ってきて、生穂から珉平焼のように有名になるという意味で付けたのではないか」と推察していた。

これが正解なのかどうかは判らないが、ここで小生の説も述べてみる。
小生の祭・檀尻研究は、郷土史からのアプローチが多分に含まれる。郷土史の範囲は地元生穂・佐野を重点的に行なっている。
前置きが長くなったが、佐野には既に地元民にも忘れ去られている偉大な人物がいた。その名を蔭山清民。カゲヤマ キヨタミまたはセイミンである。
名前というのは、漢字を間違わないように音読みすることがある。
例えば、松田正幸氏のことを「セイコウさん」と呼ぶ古老に会ったことがある。このようなことから小生はこの蔭山清民からセイミンと名付けたのではなかろうかと考えている。
さて、この蔭山清民はどんな人物なのかー。
蔭山家は佐野の名家であり、地元の功労者である。例えば元佐野小学校は蔭山家の土地であり、当時佐野村長であった蔭山清民が寄贈したのである。
しかし、生穂ではなくわざわざ佐野の人物名から取るのは可怪しいと思われるだろう。実はこの蔭山清民は檀尻とも深く関係するのである。

明治4年神仏分離令によって「淡路巡遷妙音辯財天」の掛軸が洲本厳島神社に安置された(明治6年12月)ため、明治12年に高野山から新たな掛軸を賜り、通称「廻り辯財(現在は廻り辯天)」は再開された。
佐野・志筑はこの「廻り辯財」の基本信者である。
天正年間より始まったこの「廻り辯財」祭典には神輿・屋臺檀尻・獅子頭・練り太鼓が指し出されるようになっていた(年代不詳)が、明治12年に再開された祭典からは警察(分署長)は許可を下ろさず、檀尻を出せずにいた。
明治21年11月17日、蔭山清民以下2名は、往古より檀尻を指し出していた事などを須本(洲本)警察署長に直談判、理路整然と嘆願した。
これにより「廻り辯財」祭典への檀尻巡行が再開されることとなる(現在は檀尻奉納は殆ど無い)。※淡路巡遷妙音辯財天の詳細については別記とする

「廻り辯財」に檀尻を出せるようになった立役者が蔭山清民なのである。
生穂と佐野は同じ氏子であり、両地域の血縁者も多い。小生も両地域をルーツに持つ。当然情報も共有されていることは多い。檀尻彫刻師である開家にこの「廻り辯財」の話が伝われば当然話題になるだろう。
長くなったが、小生は蔭山清民から音を取り、字を当てた説を立てる。


因みに、賢次は戦争で息子 佳積を亡くしている。生穂忠魂碑・常隆寺忠魂碑にその名が刻まれている(常隆寺には小生大叔父の名もある)。開彫の直系が途絶えてしまった理由でもある。開 藤太郎には賢次以外にも弟子がいたが、そちらも途絶えているため開彫は現存する彫物しかなく、故にその価値も尚更高まっているのである。

ここからは、賢次のプライバシーに関わる問題を含んでいるが、公開情報となっているため敢えて記しておく。
賢次は、子を亡くした後の昭和22年、紫光学苑(淡路分苑)を開き学園長となっている。
紫光学苑とは、播州(姫路市)の川上盛山が昭和21年8月に興した神道系の新興宗教である。正式名称は「神の肉体たる紫光学苑堅帯教」。

戦争で子を亡くした悲しみは、約80年も戦争がなかった我々世代には推し量ることが出来ない。信教によって晩年の賢次の精神的安寧がもたらされたのであれば、その心持を斟酌すべきだろう。


引用元:「津名町史」など
筆者が加筆修正した部分が含まれます。

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