墨東公安委員会氏の『チンドン屋たちの暴走』への批判【ゆっくりコラム Vol.2】
たまには「ゆっくり文体」ではなく、常体で書いてみよう(なお、ウケが悪かったらやめる)。
墨東公安委員会氏の次の記事を読んだ。
論点が多岐にわたる長い記事だが、かけられる時間の都合もあり、ここでは私が問題と感じた部分(冒頭)を批判するに留める。
氏は、まず自身が表現規制反対派であることを述べる。この趣旨には私も賛同する。
しかし、氏が「表現の自由戦士」と呼ぶ対象に論が及ぶと、どうにも理屈が怪しくなってくる。氏は「この発端の件」=「宇崎ちゃん献血ポスター」を引き合いに出しながら、次のように言う。
ある特定の表現が「公共の場にあるべきでない」と主張することは、確かにそれ単体では表現の自由の侵害にならない。
しかし、内容上、間違いなく表現規制論ではある。たとえ自主規制によるゾーニングであっても、「白馬は馬に非ず」のような詭弁を弄するのでない限り、「表現できる場所に制約がかかる」という点で規制には違いないからだ。白かろうが黒かろうが、馬は馬である。
よって、「公共の場にあるべきではない(ゾーニングが必要だ)」と主張する人は、少なくともそのテーマにおいては表現規制側に立っている。
私は今、バナナが好きな人を「バナナ好き」と呼ぶというくらい、自明な話をしているし、何らレッテル貼りではない。私もテーマによっては表現規制論者になる。実際、私も他者の人権を侵害する場合の表現規制(脅迫罪等)は一部認めるから、そこでは表現規制論者なのである。
規制論を唱えることそれ自体は表現の自由の侵害にならない以上、確かに「萌えポスターを批判することそのものが、表現の自由の侵害だ」という主張は間違いだろう。しかし、批判が内容としてゾーニング等を求めているのであれば、「それは表現規制論だ」としても、単に正しい(「規制」を法令によるものしか認めない場合は、「表現排除論」とでも呼ぶとしよう)。
加えて、『前提として表現規制とは(公的)権力が行うもの』と主張するなら、悪逆非道の「表現の自由戦士たち」がいかに『「表現への弾圧だ!自由の侵害だ!」と騒ぎ立て、批判を「表現規制だ!」とこじつけることで他者の表現を抑圧する』としても、フェミニストらと同様に、相手の「表現の自由」を侵害まではしていない。彼らは政府でも何でもないからである。
氏は、フェミニストらの主張は「批判・苦情・意見」とし、その一方で表現の自由戦士たちの主張は「抑圧・攻撃」と呼ぶ。しかし、両者で何がどう違うのだろうか。どちらも公的権力によるものでない以上、氏自身の論に基づき、誓って表現の自由は侵害していない。
よって、結局すべて「批判」でしかない。内容上、間違った批判も正しい批判もあるというだけの話である。
表現の自由権は対公的権力に限定され、私人の間には適用されないとすれば、他の権利はどうなるのかという問題もある。例えば、性の平等権はどうだろうか? 「差別」=「平等権の侵害」が起こせるのも公的権力だけだとすれば、私のような普通の国民やそのへんの民間企業による性差別(平等権の侵害)など原理的に全く不可能、どんなに頑張ってやろうと思っても出来ない事になる。そんな話が正しいだろうか?
また、仮に氏が「宇崎ちゃん献血ポスター」が、いかなる他者の人権も侵害していないと認めるなら、そもそも他の何を根拠にしてポスターを公共の場から排除する論を正当化するつもりなのか?
この問いに対し、「批判・苦情・意見なのだから、個別の価値観を根拠にして構わない」と答えるなら、「表現の自由」にとって破滅的な帰結を導いてしまう。
例えば、悪辣な「表現の自由戦士」が今より更に跳梁跋扈し、世論においても圧倒的大多数の支持を獲得したとする。そこで彼らは欲望を剥き出しにしてこう言ったとしよう。
「偏屈なフェミニストの主張など公共の場にあるべきではない!」
「フェミニズム勉強会のポスターなど剥がせ!」
「あいつらのセミナー開催に公共施設を使わせるな!」
もちろん、法令による規制をせよという論は採らない。言論弾圧になってしまうし、表現の自由を侵害してしまうからだ。ゆえに、あくまでも善意の私人が集まって、それぞれ自主的に苦情・意見を述べる形を守る。
氏の論によるなら、これは全く問題のない言論活動と認定されるはずだ。(公的)権力は使っていないし、各々の価値観に基づいて『私人の間で「この表現はダメではないか」「いやこれはいいのだ」という議論がなされ』ているだけである。当然、抑圧・攻撃呼ばわりされる筋合いもない。
「この表現はダメではないか」は「ダメ」が「(他者への人権侵害がなかろうと)この空間にあってはならない」を意味するのであれば、それは表現規制論または表現排除論以外の何でもなく、一つの主義・思想として「俺は表現規制(排除)論者だ」と堂々としていればいいのだが、どうもそうはしたくないらしい。不思議である。
しかし――おそらく「表現の自由戦士」と他称されるであろう――私としては、このような主張に些かの問題意識を持たざるを得ない。
「前提として、表現規制とは(公的)権力が行うもの」とし、私人の間でなされる表現の排除に関しては――それを社会的合意と呼ぶにせよ、民主的決定と呼ぶにせよ――ともかく表現規制ではないのであれば、私たちがやることは、私人の力を結集し、気に入らない表現を追い出す果てしなきクレーマー合戦である。
どちらの「キャンセル・パワー」が強いのか、それを争うだけの勝負である。
よりうるさく、迷惑で、執拗なクレーマーを大規模に集めた党派こそが、事実上、どのような表現がそこに存在していいかどうかを決められる事になる。
それは「表現の自由」が守られている社会と言えるだろうか?
公権力による表現規制に関しては歴史的に議論が蓄積されている一方で、私人間の人権侵害については議論が遅れている。現行法および既存の判例は、私人がソーシャルメディアを通じて炎上合戦・キャンセル勝負を起こすことを想定していないし、グローバルなプラットフォーマーが国家を超えた範囲で事実上の検閲的な自主規制を行い得ることに関しても同様である。
自主規制とプラットフォーマーの問題に関しては、以前に、海野敦史氏の論文を引用しながら記事でも述べたので、再掲しておく。
私としては、いかに「表現の自由戦士」が多数派になり、「フェミニスト」が少数派になろうとも、自分たちの主義主張やそれに応じた表現物を発表する自由を守りたい。クレーマー合戦に負けたら表現の自由は事実上制約されるというのでは、「表現の自由」は単に「公権力は介入していません」という最低ラインを保証するものでしかなくなる。
また、国家には、私人間の力学で少数派の「表現の自由」が脅かされた時、これを守る義務があるとも考えている。私は個人的に、いわゆる基本権保護義務論を採用していて、私的自治の原則は状況に応じて相対的に制約されるべきだという立場である。
これを言い出すと、決まって三菱樹脂事件(昭和43(オ)932)などを持ち出されるのだが、私は最高裁判例でも反対する時は反対するので、あまり意味がない(なぜ反対なのかは本記事の趣旨と異なるので、改めて述べる機会を持ちたい)。第一、刑法175条にしてもチャタレー事件(昭和28(あ)1713)で合憲と判示されているが、多くの人が反対している。
最高裁判例に反対するのはおかしいという人もいる。しかし、そういう人には最高裁判所裁判官の国民審査制度が存在する理由を考えてみてもらいたい。最高裁の判示に対する賛否を問われている以外の何を理由にして、国民審査でマル・バツをつける事が求められているのか。
表現物の内容批判はいくらでもやればいい。しかし、排除・撤去・削除あるいは職位の剥奪(キャンセル)まで求めるのは、その主張自体は「表現の自由」によって保護されるとしても、「表現の自由を守ろう」という理念の持主であれば、その表現が他者の人権を侵害しているのでない限り、自身が採用する主張としては避けるべきだろう。私は表現排除論を唱える自由は守るが、その内容には反対するし、実際に反対してきた。
なお、墨東公安委員会氏は、熊本学園大学講師の嶋理人氏であり、上記オープンレターの署名人に名を連ねていることを付記しておく。
そして、表現排除論(他者の人権侵害の事実がなくても、何らかの理由により特定の表現を排除して良いとする論)を肯定ないしは擁護する人のことを、「表現排除派」または慣習に則り「表現規制派」と呼んでいる。
おそらく今後もそう呼ぶだろう。
――以上!
いやあ、久々に堅苦しい文体で書いたわね! たまには悪くないかしら?
一応この記事、月額マガジンの無料3回分のうち「第2回」に該当するわ。次の記事まではまた無料で出して、その後はマガジン登録してくださった方々に向けて発信していくわね。
お気に召して頂けたら、Twitterのフォローや本記事のスキ&シェアをお願いね!
以下はお礼メッセージだけのエリアよ!
ここから先は
手嶋海嶺の週刊コラム
3000字~10,000字程度のコラムを収録する週刊マガジンです。主に「Twitterの140字に収まり切らないお話」を入れていきます。 …
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?