青識亜論さん(@BlauerSeelowe)とルドルフさん(@rudolph_zenda)の議論をゆっくり眺めてみるのだわ!

ゆっくりしていってね!!!! 

青識亜論さんとルドルフさんがTwitterで熱い議論をしていらっしゃったわ。まあ、この議論は数日にわたっていて、途中で別の話を始めたりもしているからどうも全体像が見えにくいのだけれど、私なりに注目した点を紹介して論評を入れていくわ。

なお、紹介するツイートは私が部分的に抜き出したもので、すべてではないから、以下の論評で「このツイートを拾っていないせいで、間違った評価をしている!」というのがあったら、遠慮なく批判して頂戴ね。

議論の発端

さて。始まりは多分ここかしら?
(この時点ではルドルフさんは関係ないわね。)

このSimonさんの発言に対する青識亜論さんの反論は、私もぶっちゃけ的外れだと思うわ。確かに「物語の読解として……」という限定条件の中なら青識亜論さんの「キャラクターの主体性」という話も成立はするんだけど、これ相手がいる議論ではビミョーよ。特に青識亜論さんはSimonさんに対して後手番だし、Simonさんは何も「物語」をそう読めとは別に言ってないから。
実際、「物語」ではなく、例えばキャラクターデザインという(漫画家やイラストレーターがやっている)「現実の仕事」の問題として読解するなら、逆に「登場人物が自ら主体的な意思を持ってこの服装に決めました。」という回答こそが零点になるわ。まー、ロマンティックな回答ではあるのかもしれないけど……。(「キャラクターが勝手に動きだす。」とか創作界隈の人はたまに言ってるわね。私もこういう情緒的表現に「それもあなたの脳内で起きている現象に過ぎない! むきゅ!」なんて言うつもりはないわ。野暮ったいから。)

というわけで、発端となったこの時点の局面は、青識亜論さん側がとても劣勢だわ。

この後、「キャラクターの主体性」というテーマについては、どっちの陣営もお互いに「私も物語の中でならキャラに主体性があるのは分かってるってば!」「私も現実の話でならキャラに主体性がないのは分ってるってば!」ひたすら言い合うという、なんか生産性のない流れになったわ。

私なら、Simonさんのお話の前半部分は「それは当たり前ね!」とでも流して、後半の『「公的なポスターに女体をモノとして掲示するな」ってコードに抵触してんのよ』を批判するわ。

一応説明すると、この部分はホント隙だらけというか、ほぼノーガードで、ストレートでもフックでもアッパーでも、どうとでも殴れるわ!
たとえば、誰が何の権限でそんなコード発行してんだとか、そんなコードが仮にあるとして何故従わなくてはならないのかとか、「女体をモノとして」いるという判定の根拠は何かとか、もちろん、その根拠を聞いたら、他に相手に不都合な事例まで「モノ化」になってしまわないかチェックしたいし、「女体のモノ化」と「男体のモノ化」の違いも絶対聞きたいわね!
あとはそうね、変わった方法として、言葉選びの視点から、「抵触」は「違反」よりは弱い表現だから、所詮は「ちょっとダメかも?」程度の話なのかと攻める手もあるかもしれないわ。やりたい放題よ!

ちなみに、モノ化(性的対象化)概念そのものについては、ヒトシンカさんが非常に鋭く批判しているから、そっちを参照してほしいのだわ。

ただ青識亜論さんはこっちの理路には進まなかったみたいね。あとで補足説明的にこうは述べてるんだけど。(これを中心にして論を進めればよかったと思うわ。まあ一体何回やらすのか。うんざりしているんですけど、というのは分かるのだけれど……。)

キャラクターの主体性云々はいったん措くとして――とりあえずポスター等の表現物を批判するとき、物語をちゃんと考慮しなさいくらいの主張で進めたと読んでおくわ。これは私も「なるほどね! それはそうね!」と思うわ。

青識亜論氏とルドルフ氏の議論の論評

で、ルドルフさんは青識亜論さんを取り上げて、こんな風にツイートしたわ。

ふむふむ? まあ、私から言いたくなることはあるけど、いったん上記のツイートに対する青識亜論さんの反論を見てみましょう。

うーん。……論旨には一定賛成するけれど、会話としてはズレてるわね?
あるいは、青識亜論さんの内心ではズレてないのかもしれないけど、少なくとも読者には非常に分かりにくいわ。
だって、ルドルフさんは、「物語性を当然の前提として押し付ける愚かしさ」を述べているのよ? なのに、青識亜論さんが説明しているのは「フェミニストがオタクから怒られる理由」よ。どう対応するのかしら。パッと分かんないわ。
「物語の文脈を知りもしなければ、知ろうともしない」と語気は荒いけれど、とりたてて作品のファンでもない、単に広告を見ただけの人がいちいち物語の文脈まで「知るべき」理由が提示されていなければ、ルドルフさんが言った「物語性を当然の前提として押し付ける」がほぼそのまま妥当な評価として突き刺さっちゃうわ。理由がない=前提だものね。

仮に物語の文脈を知るべき理由が、「そうしないと、オタクに怒られるから」だとすれば、じゃあ公共空間でのポスターでは性的表現を控えろという主張も、「そうしないと、フェミニストに怒られるから」を理由にすれば通せるのかしら? 私、絶対そんなの通したくないのだけど。

当然、ルドルフさんは納得しないから(そりゃそうだと思うわ)、次の手を繰り出しているわ。

正当化が難しい「キャラクターの主体性」の方に論点を移行させてるわね。そして最初に述べた通り、お互い「物語」と「現実」とで、「それは分かってる」「それは分かってる」と言い合う方向になったわ。
ちなみに、「広告の表現の是非みたいな問題について考慮するとき」にルドルフさんが「こうあるべき」と考える作法については、その前に説明されているわ。

けれど、青識亜論さんはやっぱり「キャラクターの主体性」を軸に話を展開させていて、いまいちかみ合わないままだわ。

「表現物のメッセージを考察するにおいて……と読むのは単なる「誤読」」は、私としては賛成できるけれど、ルドルフさんの論を壊すものではないわ。

というのも、ルドルフさんは、「そのキャラクターが何者で、どういう存在であるか、ということがらは、捨象されることが前提になる」とか「「こういう絵だけどこういう文脈があって〜」というのは、知っている人だけに通用するもので、社会一般に流布されていない「物語的前提」の存在を持ち出しても、何の意味もない。」とかの部分で、物語の文脈を踏まえた解釈よりも、広告だけを見た解釈(青識亜論さんのいう「誤読」)のほうが優先される理由・根拠を述べているわ。
したがって、青識亜論さんはこの理由・根拠を明示的に否定しないと、「議論」とは呼べないわ。ただ一方的に主張を展開しているだけよ。(見落としがあったらごめんなさいね!)

もちろん、青識亜論さんは普段とても素敵な論客でいらっしゃるし、表現の自由のために行動を起こしてきた方として個人的に尊敬もしているけれど、これは残念だけど負けてると思うわ。ゆっくりしてね!

さてさて。私としてこの議論への論評はこんな感じだけど、じゃあルドルフさんの言うことが正しいのかしら?

ここからは、私の手番よ。
あるいは、この記事を読んでくださっているあなたの手番でもあるわ。
もしルドルフさんの論に反論するなら、どうやるかしら?

さあ、盤面を戻して、検討していきましょう。

ルドルフ氏の論をゆっくり批判的に検討してみるのよ!


じゃ、最初のツイートからいきましょう!

あらあら、そうなの?

いったん仮にそうだとしましょうか。でも、ある共通コードを前提とした記号の解釈を押し付けることが愚かしいとしてしまうと、実はルドルフさん自身も困ったことなるわ。
というのも、宇崎ちゃんのポスターを「モノ化」の1つの事例として読むのだって、ラディカル・フェミニズムの「共通のコード」を持ち合わせていて"初めて結実する"「解釈」だからよ。

外部コードの参照を否定すると、ラディフェミ・コードの参照だって否定されるわ。そして、そうすると「モノ化」判定が出せないわ。

更に言えば、在野の自称フェミニストや大学教員等の学者さんたちも、必ずしも「モノ化」(性的対象化)を妥当かつ有効な概念として採用している訳ではないわ。もともと1980年代にラディカル・フェミニストのマッキノンやドヴォーキンが提唱した概念よ。フェミニズム運動の経緯的にラディフェミ一般には採用されているとは言えるかもしれないけど、フェミニスト一般には必ずしも採用されていないし、ましてやアカデミア一般や世間一般となると尚更よ。

加えて、「モノ化」を妥当な概念として採用していても、論者によって定義にブレがあるのも事実よ。とりわけ「宇崎ちゃんポスター」程度だと、ラディカルフェミニストの間ですらモノ化に該当する・該当しないで見解が分かれるわ。

実際、Twitterのフェミニストも、「あくまでTPOの問題」とか「性的なニュアンスが強く、公共的な場にはふさわしくない」とかで済ませて、モノ化とまでは言わなかった人はそこそこいたのだわ。(単に性的であることと、モノ化であることとは別なのは言うまでもないわね?)

ちなみに、マッキノンやドヴォーキンの定義、あるいはヌスバウムの定義だと「宇崎ちゃんポスター」はモノ化に該当しないわよ?

さあ、ルドルフさん――ゆっくりする時間が来たのだわ!

オッケー。ちゃんと「モノとして」と言っているわね。相手の言葉をゆっくり確認するのは大事なことよ。

じゃあ、私の一手目はこうするわ!

①「この広告表現は女体のモノ化である。」と解釈するためには、ラディカル・フェミニズムという特殊な共通コードが前提として必然的に要請される。仮に当該共通コードに関しては、"特定の定義を選出することまで含めて"表現物の製作者および読解者に対して当然の前提として押し付けて良いのであれば、「宇崎ちゃん本編の物語」という特殊な共通コードを押し付けることもまた同様に肯定しなければならない。また逆に、後者を否定するのであれば、前者も同様に否定しなければならない。
上記のどちらか(両方否定、両方肯定)を選ぶか、または「前者は肯定するが、後者は否定する」という論が成立する理由・根拠を示せ。

ああ――そうそう! 
また、ルドルフさんはこうも言っていたわよね!

自分で条件を更に厳しくしているわね! むっきゅり! 
これは応手を用意せざるを得ないわ!

私の二手目はこうだわ!

②「前提事項」には「モノ化の概念およびその定義」が含まれる。前提としてこの知識がなければ、ある記号がモノ化であるとは読み解けないからである。ゆえに、ルドルフ氏の論によれば「モノ化の概念およびその定義」は読み解きに必要なコードの中でも、自らで述べたところの「必要最小限のもの(コード)」に含まれていなければならない。むろん、この「含まれている」は論理的に自明ではないため、理由・根拠をつけて立証できなければ、モノ化という解釈もまた、物語性による解釈と同様に外部コード依存であるから「捨象されることが前提になる」。したがって、「物語」とともに「モノ化」も捨象するか、あるいは前記の通り理由・根拠をつけて「必要最低限のもの」に含まれていると立証せよ。

それから次ね。まあ、これもほとんど同じ批判になっちゃうけれど。

でも、一応ちょっと情報は増えてるわね。「社会一般に流布されていること」が参照していいコードと参照してはいけないコードを分ける条件みたいね。

なら、冗長だけれど三手目を用意するわ。(「必要最低限のもの」と内容的に同じね!)

③ラディカルフェミニズムのコードによる「モノ化」という解釈が「社会一般に流布されている」と判断できる理由を述べよ。(なお余談であるが、「宇崎ちゃんは遊びたい!」はコミックスの累積発行部数が170万部であり、テレビでアニメも放送された。よって「社会一般に流布」という点でいえば、「モノ化」概念――しかも特定の定義の「モノ化」概念――よりよほど広がっている。)

もちろん、そんなコードおよび「モノ化」の定義が「社会一般に流布」されていなさそうな理由を私は既に述べているから、注意してね。(読みに戻るのは面倒かもしれないから、もっかい引用しておくわ。)

更に言えば、在野の自称フェミニストや大学教員等の学者さんたちも、必ずしも「モノ化」(性的対象化)を妥当かつ有効な概念として採用している訳ではないわ。もともと1980年代にラディカル・フェミニストのマッキノンやドヴォーキンが提唱した概念よ。フェミニズム運動の経緯的にラディフェミ一般には採用されているとは言えるかもしれないけど、フェミニスト一般には採用されていないし、ましてやアカデミア一般や世間一般となると尚更よ。
加えて、「モノ化」を妥当な概念として採用していても、論者によって定義にブレがあるのも事実よ。とりわけ「宇崎ちゃんポスター」程度だと、ラディカルフェミニストの間ですらモノ化に該当する・該当しないで見解が分かれるわ。実際、Twitterのフェミニストも、「あくまでTPOの問題」とか「性的なニュアンスが強く、公共的な場にはふさわしくない」とかで済ませて、モノ化とまでは言わなかった人は多いのだわ。(単に性的であることと、モノ化であることとは別なのは言うまでもないわね?)
ちなみに、マッキノンやドヴォーキンの定義、あるいはヌスバウムの定義だと「宇崎ちゃんポスター」はモノ化に該当しないわよ?


そして、更にもう一つ、おまけを追加しておくわ。

このツイートで私が注目したのは「広告の表現の是非みたいな問題について考慮するとき」という舞台設定よ。
例えば、「この広告の表現ってやっていいの?」というテーマで審議会みたいなものが開かれたとしましょう。ちょうど広告の表現の是非を考える舞台になるわね? もちろん、問題の広告は「宇崎ちゃんポスター」でいいわ。

その時、ラディカルフェミニズム・コードは参照していいのに、宇崎ちゃんの物語コードは参照してはいけない理由なんてあるかしら? 要はどっちも外部コードだし、私は何のコードであろうと好きに参照すればいいと思うわ。仮に「自分コードで新しく解釈したこと」という最も社会一般性がないコードであっても、内容が妥当で説得的ならそれでいいでしょう。「モノ化」だって、少なくとも提唱された瞬間においては、著者しか知らないし賛同していなかった概念なんだから。

あとはそうねえ、さらに別の観点から面白いことを言ってみましょう。
これを四手目にするわ。

「広告の表現の是非」を議論する場で、性暴力禁止呼びかけのポスターに、架空の「物語」の中で性暴力を行い、かつ堂々とそれを肯定していたキャラクターを使用してしまったという問題があがったとする。なお、ポスターに提示されるキャラクターのデザインは、直立姿勢のスーツ姿の男性であり「キャラクターが持つ物語性」以外の点では何ら問題がない。物語性を捨象するのであれば、「そのキャラクターを選ぶのは、妥当ではない。」とは言えない。では、言わずに済ませられるか。あるいは済ませられるとしても、それは正しいことか。

ここまでで私が問題にしたことをまとめておきましょう。

・ラディカル・フェミニズム論という特殊なコードを用いた読解(=モノ化)は正当化される理由。
・数ある「モノ化」の定義の中でも、ルドルフ氏が暗に採用している特定の定義を特に正当とする理由。(なお、その定義はラディカルフェミニズムの学術的・伝統的な定義とは異なることに注意せよ。)
・ラディカル・フェミニズム論という特殊なコードが「広告等の読み解きにおける必要最小限のコード」に含まれる理由。
・当該コードが「社会一般に流布されている」と判断できる理由。
・物語性に問題のあるキャラクターも、同様の理屈で捨象され、公共の場のポスターでの使用可否の判断には関わらないのか?

以上を、当然だけれど「宇崎ちゃんの物語性」というコードは無視していい理由と矛盾しない形で示してね。現状では差別化される理由がないから、私の方で一緒にポイしちゃうわ。(私自身の見解だと、「どちらもやっていい」だけど。)

私の手番はここまで! 

チェス盤をひっくり返すわよ!

私の手番は終わりだけれど、相手の次の手を想定してみるのだわ。

――あ、本論には関わらないから、興味ある人だけ読んで頂戴ね。
議論そのものに興味がある議論クラスタ用なのだわ。

さて。私が攻め手として指した①~③の問題(④は純粋な整合性チェックだからパス)だけど、もしもまだルドルフさんに勝ち筋があるとしたら、どんな手を返せばいいかしら? チェス盤をひっくり返して、今度はルドルフさん側で考えてみるのだわ。

ただ、これはルドルフさん及びその他の擁護者さんたちには、本来「反対者」である私からは提供する必要のない情報だし、有料部分にゆっくり格納させてもらうわね!

お値段は200円にしたのだわ。私にジュースを奢ってもいいって人はよろしくね! ……ちなみに、ジュース代よりちょっとお高いのは、noteに天引きされる分があるからよ。

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