見出し画像

生まれ持った特性を「障害」でなく「強み」と思える働き方

本日は、作家として手仕事で生きる私が、何故今のような働き方に落ち着いたのか。

noteのお題「私らしいはたらき方」について書いてみます。



パニック障害、ADHD

私は成人になってから、
パニック障害
ADHD=注意欠如多動性障害
と診断されました。

パニック障害は小5からです。
ADHDも、幼少期から思い当たることは数多くあります。

それらに名前がつくものだと知ったのが成人してからで、長くこれらの症状に苦しみました。

診断がつくことを望み、受診しました。
診断がつかなければ、ただの駄目人間じゃないか。


診断、投薬、副作用

望み通り「パニック障害」「典型的なADHD」と診断がついたのですが、そこで私が選んだのは「障害を服薬で克服し、社会に適応する」でした。

その頃は、描く仕事がしたいと思っていたものの、雇われる生き方しか知りませんでした。
起業なんて夢にも思っていなかったのです。

当時の職場に適応すること、それに重きを置いた結果、薬が出ました。

ですが、作用以上に副作用に苦しみました。倦怠感、躁鬱、今でも一番思い出したくない時期です。

数カ月後、私は仕事を辞めざるを得ない状態になっていました。

※投薬が合う人、合わない人色々です。私の場合の話です。


好きなことで回復

私が起業したのは、仕事を辞めざるを得なくなり、思いがけず時間が出来たからでした。

描くことを、ようやく仕事にしてみようと。
どうせ外では働けない。
家から出られないし、起業するしかなかったんです。

通院はまだ続いていました。
飲み続けた薬をいきなりやめてはいけないので、ゆっくりと漢方にシフトしている時期でした。

ADHDの特性も今までの雇われる仕事とは違い、良い方向に働きました。
投薬でぼろぼろになった私はぐんぐん良くなっていったのです。

正直、カウンセリングより薬より、ずっとずっと効果がありました。


断薬、懐妊

漢方に切替からの、完全に断薬できました。

断薬してしばらくして作家業が軌道に乗ってきた頃、私たちに待望の赤ちゃんがやってきました。


我が子にも障害が

自身が大人になって発達障害に気付いただけに、我が子の発達は注意深く見守りました。

違和感を感じ、検診は発達のみ集団ではなく個別で見ていただきました。

療育を勧められ、親の勉強会も沢山受けさせていただき、自身の幼少期とも向き合うことになりました。


病院での診断は受けていませんが、療育手帳は取得。
療育に来てくださる医師の巡回相談では、「名前がつくとしたら自閉症スペクトラム」でした。

幼稚園に入園して、この子はグレーゾーンではなくて、黒だなぁと思い……

就学相談前に、自閉症情緒学級でなく知的学級を勧めらた時には、私たち夫婦も受け入れられました。


育児のやるせなさを、仕事にぶつけた

ADHDの私が、自閉傾向の知的障害児を育てるのは、なかなか大変です。

子育てのことだけを考えると辛くなることも多く、事業的な成功で心を落ち着けたいと思うようになりました。

子供のサポートだけでない人生を生きたかった。
私を苦しめたADHDを、肯定出来る仕事がしたかった。

私は子供がいない時間はひたすらに、仕事に、仕事のための学びに打ち込み、作品は売れました。



私らしい働き方は、育児にも良い影響があった

誰かに合わせることなく、ありのままの私で、私が私の作品を求めるお客様のために作った仕事で収入が得られる。

そんな私らしい働き方は、子育てでも良い影響がありました。

良い意味で肩の力が抜け、成長度合いに関係なく「どんなあなたでも」という気持ちが、より深くなりました。

どんな私でも、私が私として働いているように。

特性を「障害」と捉え、服薬で社会に適応するよりも、特性を「強み」と思える働き方。

「私らしいはたらき方」は、我が子に寄り添い、作家として、手仕事で生きることでした。


最後までお読みいただきありがとうございます^^

いいなと思ったら応援しよう!