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煩いの克服のための幸せな知識~この世界を生きていく人のためのささやかな技術~
序文
この世界で生きていく人のために、わたしはこの度、この文章を書くことにした。人間の系の状態は動きであり、幸福のためには、細かな変数を付け足しながら自己形成を進めていかなければならない。この文が大勢の悩む人へのささやかな変数獲得に活用していただければ、わたしの幸いである。
なお、本稿を執筆していた時期は神経症が高まっていた時期にあたるため、わたしなりの自己治癒が含まれる。そのことを念頭に読んでいただきたい。いつか、別様のかたちで役に立つ時があるだろうと思う。
感情の制御と五感
嗅覚について
人は、感情を適切に育み、また変数によって制御していかなければならない。そのためには、細かな「制御変数」が必要である。
人間の恐怖感を司り、「闘争か逃走か反応」を生じさせるのは、モノアミン系神経伝達物質のノルアドレナリンであるが、オキシトシンには、その反応を抑制する作用があるようだ。
そこで、わたしは、現代、数を増している「一人でいる人」に対して、自分自身でのオキシトシンの出し方という道を提案する。わたしは、神への祈りによってさまざまな神経伝達物質を分泌できるほうであるが、必ずしもそのような人ばかりではないことを承知している。だから、さまざまな変数を提案しなければならない。
もっとも、人に大きな影響を与えるのは、本人の体質と現在いる環境なので、そのなかでどうやっていくのかを提案し、しかるのちにしかるべきことをしたほうがいいし、変数の獲得と経験の進行は生において同時に進まなければならない。
わたしは先に「環境」と言ったが、これは、たとえストレスの多い社会環境にいたとしても、例えば入浴する、良い香りを嗅ぐ、といったことがその局面においては環境になる。入浴剤を使うなどの調整はよいことだと思うし、なにも化学的効能を期待せずとも、たんにいい香りのする好みの色合いの入浴剤を入れたというだけでもう違うものである。また、入浴を昼にしてはいけないという決まりもない。いい香りには他に、アロマやお香を焚く、香りを楽しみながら同時にお灸をする、そうでなくても消臭剤でもいい。
嗅覚は、他の五感と異なり、鼻の受容器で化学物質を受容すると、直接大脳辺縁系に入力していて、行動や情動や記憶に強く関わっているので、伝統的によいとされてきた香りには「闘争か逃走か反応」を抑制する作用があるはずである。だから、五感を用いて感情を制御したければ、まず香りから手をつけるのが最もよいはずである。考えてもみれば、仏壇の線香は、たんなる儀式として見逃してはならず、元来香りのためのものだったはずである。
例えば、街中で緊張しがちなら、つねに香りのするものや、香水を、身につけたり持ち歩いたりすればずいぶんと緩和できるはずである。聖書にも、イエスが誕生したさいに「東方の三博士」が「黄金、乳香、没薬」を贈ったという逸話がある。乳香とは、お香にするための樹液である。また、イエスに危機が迫っていたころ、ある女がイエスに非常に高価な「香油」を注いだという重要なエピソードがある。
はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
触覚について
皆さんも、ザビエルの肖像画を見たことがあるだろう。
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こちらである。
わたしは、このポーズに似た格好で、肩の付近を撫でることで、不安が解消される感覚がある。これは、多分触覚によってオキシトシンが分泌されることによるのだろうが、オキシトシンは実際、不安を解消する。
嗅覚においてもオキシトシンに触れたが、オキシトシンは、普通、母親が子供に授乳するさいや、子宮が収縮するさいに分泌されるし、具体的には、親密な人との接触-触れること-によって分泌される。
この場合、わたしは、例えば自分で持っている猫のキャラクターの缶バッジの額を撫でることで、落ち着く感覚がある。これは恐らく実際に起きていることだろう。ザビエルのこのポーズも、オキシトシン分泌のポーズではないかという仮説を提唱したい。
宗教は、どのモードが前景化しているのかによってそれを特徴づけることができる。初期仏教やそれを継承した禅宗における、「遊行」や「瞑想」、「作務」においては、人はセロトニンを多く分泌する。だから、基礎から安定し、しかも安らぎ、また、元気になることができる。双極性障害の躁状態においては、セロトニンの過剰分泌が報告されている。だから、「元気になる」ことや「健康になる」、「安らぐ」といったことが目標なら、天気のいい日の外出や、マインドフルネス、瞑想、ヨガ、呼吸に注意するといったことが効果的である。
一方で、「元気になる」とは別様の回復プロセスが、キリスト教である。キリスト教は、社交的な人でも内向的な人でも幸せになる道を示したと考えられるところがあり、その前景化しているモードは、神経伝達物質の側から言えばオキシトシンであり、基本原理はまさに「愛」である。
中沢新一の『リアルであること』という著作で、中沢は糸井重里を高く評価して、かつての洋傘のコマーシャルのキャッチコピーである「ナンデアル、アイデアル」を低く評価していたが、わたしからすると、図らずも中沢は「ナンデアル、アイデアル」というよほど優れたキャッチコピーを紹介したことになる。
例えば、これは多義的であり、一つの解釈としては、「アイデアル」が「ideal」であり、洒落ている、ということになる。別様の解釈だと、「ナンデアル」とは明らかに日本の伝統的な言葉なので、そこで日本の武士などが、洋傘をさすように十字架を示した異人に「ナンデアル」と問うて、「愛である」と返ってきたというような解釈も可能である。
仏教では通常、「愛」のモードは規制されるべきものとして戒められる。ここに、仏教の特質があり、「オキシトシンが分泌される」ことを瞑想の効果だと言い張る人がいたら、本旨には反していることになりかねないとは、半分は思われる。或いはそれが「自家分泌」だけが重要であり、「他者との親密さ」という不安定なものを避けよ、という意味であれば筋は通る。だから、「自灯明、法灯明」、或いは「自己に頼れ、法に頼れ」と言うことは可能である。しかし、歴史的に見れば「愛」はやはり仏教では規制されるべきモードではないだろうか。
志村けんのアンサイクロペディアに、「愛印」という項目がある。
アイーン
漢字で表記すると「愛印」となる。仏教では本来「愛」は煩悩として規制されるべきものであるが、志村は「愛印」という言葉により、愛は三宝印、四宝印と同じように大事なものであると説いている。志村が単なる仏教徒にとどまらず、哲学者としても評価される所以である。
だから、「ナンデアル」と日本人が聞いて、それへの「返し」として、異人が敢えて仏教用語を逆用して「愛である」と答えたのだとすれば、とても洒落たものになる。
他者と触れ合う、ということは、こうしたモードの重視であり、それは異人が多く信奉するキリスト教においては、「隣る」愛である。すなわち、「隣人愛」の箇所を原語で読めば、「隣り人になっていき愛する」という動詞的な意味になっているので、「隣る」という触れ合いが徳目となる。だから、「ナンデアル」と聞かれて、その異人は多分、雨の降る中「愛の洋傘」をさっと差し出して、「愛である」と言ったのであろう。わたしはそう解釈するほうがidealだと思う。
「触れる」ということは実際、キリスト教においてかなり重要な位置を占める。最近でも、多くの宗教に「手かざし」が認められるが、キリスト教にも手かざしはある。
それから、イエスは言われた。
「全世界に言って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
また、せめてイエスの服のすそに触れて癒されようとした女は、触れて癒された。癒しが、「触れる」ということと同時にある証拠である。
だから、ザビエルのセルフタッチというのもあながちおかしな主張ではないことがわかるだろう。セルフタッチしつつ、他者に触れていくのである。
2024年11月30日