プレイとしての哲学~ニーチェ篇第1回:ニーチェ哲学の基礎知識~
わたしはこの度、ニーチェをプレイしてみることにした。これまでわたしは、哲学書を知識として読んでいたが、プレイしなければ哲学の醍醐味がわからないと考えられてきた。そのため、手に取るのがニーチェである。そこからなにが引き出されるのかはわからないが、ともかくやってみることで、この倦怠と無関心の局面を打破する展開もあるだろう。しばらくやってみるつもりであるが、そのために今回は、ニーチェを読むために基礎的に抑えておいたほうがよいことを書いてみる。そのことが、読者のニーチェ経験の補助になればこの上ない幸いである。
ああまたいかにもニーチェらしい。あまりにもニーチェらしい序文である。
ニーチェを一貫するこの「エッケ・ホモ」と、孤高ぶる態度は、彼の精神状態からくる諸状態の反映である。彼は、既に抑制的になれるほどの生理的状態ではなかった。
こうしたものを読むと、愚かで勉強不足、或いは誤った勉強を続けてきた幼稚な観念論者、精神論者は、すぐに、ニーチェがこのような思想を抱いたからこそ発狂したのだと考える。しかし、賢明な読者ならそのようなことがあろうはずがないことをよく知って、或いは哲学を馬鹿にして、こうした哲学書を読み、活用することができる。
ところで、わたしはこの「新しい音楽を聞きわけうる新しい耳」という箇所に、わたしの経験が連合する。
というのは、しばらく前に、ニーチェから哲学に入った哲学科の先輩と徹夜で夜通しカラオケを歌った帰りに、雨の降る中傘を持っておらず濡れながら並んで帰っていたとき、わたしは先輩に、「そういえば、今日の曲、神だの天使だのといったタームが頻出したね」と言った。そうすると先輩は、「あれは神の返り血の時代をあらわしている」などと言っていた。すなわち、「神が死んだ」ということがあり、神が死んだのちの返り血の時代をわたしたちが生きているということを……。
だから、わたしにとって「新しい音楽」の直接的に与えられるイメージは、先輩経由でわたしに侵入してきたこんにちのボーカロイドによる「界隈曲」なのである。
わたしにとって、「界隈」運動は注目に値する。界隈運動はたんなる若者の一時的な気休めの流行ではない。もちろんそうした気休めの作用があるのだが、それよりも大局的な観点で注目に値する、と言っているのである。
わたしたちは、それぞれの信念体系、それぞれの実存—すなわち「それぞれの十字架」—を負うて生きていようと、それ以上に、わたしたちの生きられる物語を構成するものは、或いはもっと些末に日常の語彙、所作、美的な適意は、決して主観に閉じていない。むしろ、わたしたちは、「私の精神」と言わずに「私たちの精神」と言わなければならない。わたしたちを動かすもの、すなわちわたしたちの行為の準則だけでなく、わたしたちの感動すらをも規定するものは、共同精神であるからである。
先般、この暑い夏が終わり涼しくなってきたと思ったら、急に冷え込みが厳しくなった時があった。その際、SNS上で観測でき、わたしも体験したことに、自律神経の乱れがあった。そのときにあるフォロー-フォロワー関係の者が言っていたことが、「タイムラインが鬱病みたいになっている」という一言だった。わたしはそれで想到した。確かにわたしたちは、わたしたちの共同精神は、「キツネにだまされなくなった」が、相も変わらず当然のことながら、自然の変転からのはたらきかけを受けている。社会は確固たる実在とも言えず、実在しないとも言えず、少なくとも閉じてはいない。わたしたちは未だになにか、あの自律神経が乱れたとき特有の、藁をも縋る誤謬的因果推論への飛びつきをやめられない。すなわち、わたしたちは今も、ある意味で「キツネにだまされている」。
日本的霊性において「キツネ」に仮託されたり、或いは諸事物へのアニミズムで解釈されていたものは、西アジアやヨーロッパにおいては端的に一元化され、例えばギリシアの「運命」、一神教の「神の計画」……。
ニーチェの「思想」ではなく、ニーチェの「哲学」、すなわちニーチェの実行したプロセスをわたしたちのなかの能力ある者が展開していくとすれば、起こりそうなことは「象徴秩序」の徹底した解体である。
「神の死」は、端的に西洋の象徴秩序の「隅の親石」を狙撃したものであった。ニーチェが仏教をキリスト教と同じくニヒリズム=デカダンスの宗教としつつも高く評価する理由は、素直に仏教が「実証主義的」であり「現実主義的」であるからということが、『反キリスト者』に書いてある。ニーチェは、すなわち「象徴秩序」の解体から、冷徹なまでに正直になって事象そのものを見据え、そうして「より力への意志のために有効な仮構」を模索した人物であった。しかし、彼は「超人」がなんであるか、その仮構をしなかった。やったことは、あくまでも「生命の本質は力への意志である」という、さしたるものではないことの定式化に留まった。
ニーチェの芸風は後期において(『ツァラトゥストラ』より後の諸作品において)一貫している。すなわち、根幹に「力への意志」を立て、その立場を固持してそこから、その意志を、或いはニーチェのいう「生」を頽落させる一切の「キリスト教的なるもの」を暴露し、告発する。ニーチェを総評的に言えば、それだけの人である。
だから彼にとって、力への意志を高める「民族の神々」は善であった。しかし、キリスト教の神は、或いは旧約の預言者たちの神は、善一元なる神であるがゆえにこそ意志を削ぐものであった。精神的(Geist的)な善意に安らいでしまうからということも見抜いていただろう。
最近、ネットに戸塚宏が登場して物議を醸しているが、彼は、最近「アドレナリン」だの「ドーパミン」だのと言い出してしまっているが、根幹は、体罰をつうじて弱い=子供を、反発させ乗り越えさせることで強くするという主張である。
だから、戸塚宏にもニーチェにもよく似たところがあるし、それをニーチェが嫌った典型である、キリスト教とヘーゲル主義に対置して言えば、彼らには「弁証法」がない。弁証法のない直進する力への意志は武士道に通じる。
言ってしまえば、古典は、或いは思想は、すぐに取ってつけたように「死ぬ」という言葉を多用するが、武士道の「死ぬこと」は本当に生物的な死を意味している。一方で、キリストの「死」とは、或いは世界宗教全般にみられる「死」とは、生物学的な死ではなく、「死ぬ」ことによって(否定されることによって)存在が止揚され、新しく生まれることを意味している。
ニーチェは、徹底して「この世的なるもの」、「生き抜くこと」を愛した。ニーチェは実際、『偶像の黄昏』のなかで古代ギリシアを頽落させたものとして「弁証法」を挙げる。彼はそこで、「賤民ソクラテス」を槍玉に挙げている。曰く、論証されなければ信用できないものなど、低級のものと見做されていたのに、それが転倒された、ということである。
だから、ニーチェの批判の射程は広く、「論証」に及ぶ。その代わりにニーチェは何を持ち出して立てるのか?「命令」である。自己自身が自己自身に対して命令すること。そうして、自己超克すること、この主張が『ツァラトゥストラ』においても一貫してなされている「超人」の輪郭である。だから、超人は「概念のミイラ」のように定式化されることがない。常に、動きとして間断なく超克され続けるのである。それが、ニーチェにとっての「良心」であり「善」であった。
基本的に、こうしたことを抑えていれば、ニーチェをプレイすることの基本となる。プレイとしての哲学を始めるためにも、まずはざっと全体のあらましを抑えることがよいように考える。
2024年12月2日