古事記①
ねずさんの古事記の本愛読者です。
序文の解説から始まりますが、そこからぶるっと感じた『職業使命感』について書きます。
職業使命感という言葉、2週間ほど前に、元USJの森岡毅さんが、そこまで言って委員会に出演の際に語られていたもので、初めて耳にした。
新型コロナへの対応を受けて、早々に自粛に入ったユニバーサル・スタジオ・ジャパンだが、森岡さんは元役員として、その使命感の無さを憂いていた。
もっとできることがあるのかないのかすら、検討された形跡がないという。ディズニーも閉めたしさっさと閉めた方が無難だし世間的にも誉められるだろう、という感じだろうか。しかし森岡さんは、最後の最後まで考え抜く職業使命感を考えるべきとおっしゃった。わたしはここで、『ぶるっと』きた!
小さな飲食店が悲鳴をあげている。たしかに協力金の意味のなさは本人たちのインタビューをみると伝わる。こんなときこそ、キングコング西野さんではないが、飲食店オンラインサロンなどガンガン立ち上げて協力するしかないように思える。もう、個人経営は難しいのではないかと思える。ならば小さな飲食店が集まりでかくなれないものか?
でかくなって、デカイ金を無利子で融資受けて、自惚れないグローバルダイニングになれないだろうか。
とにかく今は繋がることだろう。ひとりでは無理だ。戦えない。自粛警察はあまりにも恐ろしいからだ。
和をもって尊しとなす、聖徳太子が謳われた憲法の格子だ。
古事記序文では、太安万侶が、このように書く。
『臣安万侶言』
臣下のやすまろが、申し上げます
とのこと。
この5文字だで、さまざまな事を伝えているという。
まずは臣。臣とは、天皇、大臣、民、という当時の社会構造における公務員たち。臣は『やつこ』と読み、天皇と民の間に仕えるもののことだ。
天皇は言わずもがな。民は当時『おほみたから』と呼ばれ、正に国の宝は民である、ということだった。『おほ』は大きく富む、『み』は稲、『た』が田んぼ、『から』がはらから。はらからとは、同じはらから産まれた兄弟、みたいなイメージ。つまりは天皇も民も先祖を同じくする存在ということ。
それにお仕えしたり、助けたりするのがやつこである臣だ。天皇は民を宝のように想い、民は天皇を宝と想う。その民の代表たちは臣として、国を治めていく。
太安万侶おおのやすまろは、序文で言い切る。『臣安万侶言』と。天皇と民のために働く、臣下であるやすまろが、申し上げます、と。なんと言う職業使命感だろうと、わたしは震える。徹している。この感覚は日本人しかわからないかもしれない。
『臣』とつけるだけで、その人の想いを感じ取れるだろうか、わたしには心に響く、太安万侶の職業使命感が。古事記は天武天皇に編纂を命じられて一朝一夕で出来たものではない。かなりの年月を要している。その苦労を尾首にも出さず、『臣』に徹しているのだ。