記念日反応がようやく夜明けを迎える?
記念日反応だと、認めることさえ嫌だったけれど、今年の誕生日前後はしんどくてびっくりした。でもやっとこさ、ちょっと抜けてきた感がある。
それもこれも、きっかけになったのは、昨日仕事のミーティングの時間。ゆりさん 岩橋 ゆりと話をしていて、チェックイン的に自分の調子を伝えようとしたら、するすると引き出されるかのように気持ちが出てきた。
「わたしはお祝いされたいんじゃなくて『ここまでよく生きてきたね』って本当に苦しいときを見てきた人たちに言ってほしいんだ。でもそれはわがままなように思える」
ということを言った時、ゆりさんは「それはわがままなんじゃなくて、てるみんの中にある切実な願いとか希望なんじゃないの」って返してくれて。
それでも今も「わがままだなぁ」という思いは抜けないのやけれど、その言葉に救われる思いがした。「誰に言ってほしいの」って聞かれたときに目の奥にじわっと涙が溜まってくるのを感じた。
その後のやりとりはここには書かないけれど、その時間がほんの10分,15分くらいだったと思うが、私にとっては理想的な「ケア」の形だった。
奇しくも「きく耳を開くワークショップ」の第二弾準備のためのミーティングにとった時間だったが「きかれる」ということの力を感じた。でもゆりさんは「ケアしよう」「きいてあげよう」なんて意図はない。その安心感、信頼感っていったらもう…。関係の中で自ずと発露してしまうなにかがあった。
グリーフケアの世界に身を置いていると「ケアをしてあげたい」「きいてあげたい」「寄り添いたい」って言葉をいっぱい耳にする。それは意図に満ちていて、やさしいのかもしれないが、わたしはちょっとだけこわいって思う。
だから「ケア」は「あいだに生まれる」っていう伝わりにくいけど、私なりに大事に思う「ケア」への信念を伝えている。
もちろん、いろんなケアの形があっていいし、人の求めるものもちがうから。
さぁ、今日は大正大学の授業二回目。お坊さんの卵さんたちに「聴くと対話」の学びを届けにいくぞ〜。
ひとまず、記念日反応的なものがほどけてきて、ほっとしております。夜明け前って感じだ。いってきます。