見出し画像

降雨

上から水が滴る。
部屋の天井は黒くくすんでいる。
水は濁っている。
泥と埃と汚れを孕んだ液体が落ちる。
床に置かれたバケツがそれを受け止める。
ぽちゃんという水音が聞こえる。
外では雨が降っている。
ここ数日、ずっと降っている。
ぼくは、部屋の中でてるてる坊主を作り続けている。

てるてる坊主は翌日の晴天を乞う存在である。
しかし、どれだけ作っても意味がない。
どれだけ吊るしても、一向に晴れない。
所詮は「祈り」の存在ということなのか?
「祈り」とは無意味なのだろうか?
ぼくは、それは違うと思う。
強い「祈り」には意味がある。
他者を害すことも、救うことも、天候を左右することだってできる。
だって、実際に体験したから。

昔の話だ。
小学生の頃のぼくには、気に食わないクラスメイトがいた。
特にそいつに問題があったわけじゃない。
いじめっ子でもないし、ひいきされていたわけでもない。
ただ「嫌いだった」だけだ。
登校すると必ず顔を合わせることになるのが嫌だった。
だから排除した。祈りを使った。

てるてる坊主は翌日の晴天を祈る存在である。
なら、逆にした「るてるて坊主」はどうだろう。
るてるて坊主は翌日の降雨を祈る存在である。
ぼくは、るてるて坊主を作った。降雨によって氾濫しそうになっている川に、そいつを突き落とすために。
氾濫していなければ、助かるかもしれない。
それに、ぼくの仕業だと気付かれるかも。
だったら、完全に殺して隠蔽してしまえばいい。
雨によって足を滑らせ、川に落ちたと偽装できる。
我ながら良い作戦だと思った。
だから、るてるて坊主を作った。
神社に行って降雨を祈った。
インターネットや図書館で調べたおまじないもした。
そうした祈りの「積み重ね」があって、
数週間後に豪雨が来た。

豪雨の時、学校の帰り道でそいつを川に突き落とした。
そいつが水中でもがくのを眺めた。
こっちに手を伸ばしてきた。
ぼくは傘をそいつに向けて、思いっきり突き出した。
そいつの目に傘の先端が刺さった。
そいつが叫ぶ。溺れているから声がとぎれとぎれになる。
でも、豪雨と流水音によって叫びはかき消された。
いい気分だ。
暫くして、そいつが水の底に沈んだ。
そして浮き上がり、海の方へと流されていった。
そして数日後、海岸に打ち上げられた様子で見つかった。

そいつの葬式には出た。
あくまで「友達」として、
そいつを助けようとした「友達」として振る舞った。
そうすれば、そいつの親族からの感謝と謝罪を聞けるから。
そいつの葬式は、遊園地に行った時みたいに楽しかった。
死に顔も見れたし、醜くなった姿も見れた。
笑いを堪えた様子は「ショックで黙っている」ように
映っていたようだった。
それがおかしくておかしくて。
ぼくはその日の様子を事細かに日記帳に書いた。
そいつが死んだ記念と、ぼくの幸福記念に。
今でも、その日記帳は宝物だ。
つらいことがあったら、見返すようにしている。

今でも、あの時のことは覚えている。
だからこそ、てるてる坊主を信用している。
祈りは結果をもたらす。
もしかしたら、そいつの怨念とかが降雨をもたらしているのかもしれない。
祈りは誰であろうと行えて、誰であろうと結果をもたらすことができる。
なら、そいつの怨念が祈りとなって、
降雨という結果をもたらしてもおかしくない。
とことん目障りな存在だ。
じゃあ、こっちも祈ってやろう。
そう思いながら、ぼくはてるてる坊主を作った。
てるてる坊主は翌日の晴天を祈る存在である。

今日も晴れなかった。
明日は晴れるかな。



照守皐月 / teruteru_5
「降雨」 2024/09/25
CC BY-SA 3.0

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?