エレクトーンを習っていた頃の話
エレクトーン、ヤマハの電子オルガンのことだが、とても思い入れのある楽器だ。幼稚園から小学校低学年の頃、当時住んでいた町田市の山崎団地の集会所で、ヤマハ音楽教室の幼児科が開催されていて通っていた。その時、親がエレクトーンを買ってくれたのだった。と言っても自分から欲しいと言った覚えはなく、ある日狭い4畳半の部屋に搬入されたのだった。その時はエレクトーンに多くの機種がある認識とかはなく、「河は呼んでいる」とかを弾いていた。近所の友達も数人一緒に通っていたが、それぞれの家庭でエレクトーンを買ったのかどうかはもう覚えていないが、ピアノを買った人もいたのだろうと思う。
↑ B-4
最初に購入したのはB-4という機種で、音色を設定するトーンレバーも非常に少なく、リズムボックスも付いていなかった。このエレクトーンは下位機種だと思うが、当時いくらだったのかはわからない。でも親としてはそれなりの出費をして子供に音楽教育を受けさせてくれたのだろう。
確か小学校3年生か4年生の時だと思うが、団地内のエレクトーン教室に通うことになった。山崎団地の4街区にあるY教室に初めて訪れた時のことはよく覚えている。当時Y教室で使用していたエレクトーンは、D-30という機種であった。
↑ D-30
「トーンレバーがたくさんあってスゴイ」という記憶が強く残っている。訪れた時にちょうど先生が別の子にレッスンをしていたのだが、音色がうちにあるB-4とまるで違う。
↑ D-30の鍵盤
当時のエレクトーンのトーンレバーは、音色によって白はフルート系、黄色はストリングス系、赤はブラス系という感じで色分けされていた。白のフルート系のトーンレバーが複数あるのは、各レバーに16'や8'などの数字が表示されていて、パイプオルガンのパイプの長さ(=フッテージ)=音の高さを表している。8'というのは8フィート、4'は4フィートで8フィートよりも1オクターブ高い音、16'は16フィートで8フィートよりも1オクターブ低い音が出るようになっている。16と8と4の3本のレバーを入れると、指1本でドを押さえると3オクターブ分の「ド」が同時に鳴ることになる。エレクトーンはそうやって音色を作っていくのである(音色の設定のことをレジストレーションを呼んでいる)。D-30にはB-4にはない緑のトーンレバーがあって、これが鍵盤周りを華やかにしていた。緑のレバーには少し特殊な音色や効果が設定されていた。
Y教室で最初に習った先生は、まゆみ先生であった。小学生の自分にとってはスゴイ大人の女性であった。そして美人であった。レッスンの30分の間、大人の女性の化粧の匂いを非常に感じた。小学生が化粧の匂いを嗅ぐことはあまりなく、これが大人の女性の香りなのかと思っていた。今思うに当時まゆみ先生は何歳だったのだろう。20代だったとは思うが、ものすごい大人に思えたものだ。
自宅よりもいいエレクトーンでレッスンを始めると、当然自宅にもより上位機種が欲しくなるものである。あまりよく覚えていないのだが、親に新しいエレクトーンを買ってくれと頼んだのだろう。確か小学校5年生くらいの時に、新しいエレクトーンD-60を買ってもらった。買ったのは町田のスガナミ楽器店であった。
↑ D-60
D-60は、記憶では定価が73万円であった。弟もエレクトーンを習っていたとは言え、今思うと小学生のために73万円もするものをよく買ってくれたものだと思う。D-60はD-30の後継機という感じで、さらにオーケストラ系の音色が増加していて、新たにボタンで設定するようになっていた。オートアルペジオなどの機能も付いていたが、当時の自分には使いこなすことはできなかった。D-60に買い替えたことによって、曲を演奏することが楽しくなったことは間違いない。
中学1年生の時、初めてエレクトーンフェスティバルを聴きに行った。と言っても全国大会とかではなく、ずーっと前段階のスガナミ楽器店大会で、録音するためにSONYのラジカセ「Metal 365」を持って町田市民ホールに出掛けた。
舞台にはエレクトーンが2台設置されていた。E-70とC-400という機種で、ほとんどの出場者はE-70で演奏していた(C-400で演奏したのは一人だけであった)。大会に出場する人たちの演奏なので、自分にとってはどの演奏もあまりに上手く圧倒された。さらに圧倒されたのはこのE-70で演奏される音であった。D-60と全く違った。クラシックの曲の演奏は、大げさに言えばオーケストラで演奏しているように聴こえた。オーケストラの音色を設定するボタンが光っていて、さらに鍵盤を照らす照明も付いていて、こんな機種があったのか…、と思った。
↑ E-70
鍵盤はフルスケール、ベースは2オクターブあって、E-70が欲しくなった(自分の演奏力のことは考えていなかった)。この時いろいろな曲が演奏されたのだが、自分が最もよかったと思ったのが、フランスの作曲家フランシス・レイの「白い恋人たち」だった。最初は3拍子で演奏していて、途中でボサノバになるというアレンジで、とてもカッコよくて翌年の発表会で自分も演奏した。思えばフランシス・レイが好きになったのは、これがきっかけであった。そしてこの時のゲスト演奏が、おそらくまだデモンストレーターになって間もない、今はとても人気のあるエレクトーンプレーヤー窪田宏さんであった。曲は何を演奏したのか全く記憶がないのだが、とにかくベース演奏の足さばきがすごかったことだけ覚えている。
↑ E-70の鍵盤
E-70はその価格が180万円と超高価で、中学生の自分でどうなるものでもなく、カタログを眺めているのがせいぜいであった。ただ、その時習っていた葉子先生が、スガナミ楽器にE-70があって30分だけ借りてあげるから弾いてきたら?、と言ってくれて1度だけ弾きに行った。自分にとってはあまりにすごいエレクトーンなので、30分で何ができる訳でもなかった。分不相応というのはこういう時に使うのだろう。
通っていたY教室のエレクトーンがD-30からD-700という機種に変わった。D-700はうちにあるD-60の後継機種で、オーケストラ系の音色が充実し、リズムボックスの音が良くなった。
↑ D-700
この頃に習っていた結花先生はとても優しくて、あまりグレードを受けなさいということは言わなかった。自分もそういう先生に甘えてとグレードは受けていなかった…。当時のエレクトーンは数年ごとに新機種が発売され、その度にグレードテストの受験機種も変更されていた。数年ごとに何十万円もするエレクトーンを買い替えていくことはできないので、自宅の機種と教室の機種やグレードを受験する機種が異なることになり、なかなかツラいと思った。ただ発表会で演奏する機種と自宅の機種が違うのは結構大変だったと思う。
高校生になった1983年、エレクトーンもそれまでのアナログからFM音源が搭載された機種が発売され、Y教室の機種もFS-30という機種に更新された。
↑ FS-30
この機種からこれまでエレクトーンの特徴でもあったトーンレバーがなくなり、ほとんどがボタンとスライドレバーによる操作になった。この機種からタッチトーンが搭載された。それまでのエレクトーンは鍵盤を強く押しても弱く押しても同じ音がしていた訳だが、タッチトーンの搭載により強く弾けば大きな音、弱く弾けば小さい音がなるようになり、表現の幅が広がった。ただ自分にとってはこれが難儀した。ピアノはタッチの強さで音の強弱を表現するので、ピアノ経験者は有利だと思った。
↑ FS-30の鍵盤
リズムもシーケンスプログラマーが搭載され、曲に合わせてプログラムできるようになった。中学生から高校生にかけて、ずっとエレクトーンを習っていたが、練習はあまりせず、発表会の時に少し頑張るくらいで、思えば惰性で続けていたような感じであった。小学生の時にグレード9級を受けて以来サボっていたグレードテストを受けたのがこの機種であった。もう大学生になっていた。惰性で続けていたとは言え、男子でエレクトーンを続ける人はあまりいないので、教室の発表会では貴重な男子生徒であった。
グレード6級を受けた時にFS-30で演奏した自由曲は、当時F1グランプリのテーマ曲であったT-SQUAREのTRUTHであった。アドリブの難しい部分は当時の自分の技術では完璧に演奏することができず、当時習っていた千秋先生と一緒にアレンジして少し簡単に演奏できるようにした。
当時習っていた千秋先生が自宅で使っていたのがF型の最高機種であるFX-20であった。大きさ的には前述のE-70と同じくらいで、鍵盤はフルスケール、フルベースでソロ鍵盤まで付いている。
↑ FX-20
FX-20は確か200万円以上したと思う。一度千秋先生のうちで、先生が演奏するTRUTHを聴かせてもらった。当たり前だが演奏が上手くアドリブも完璧に演奏していて圧倒的であった。加えて演奏中にレジストレーションを変更するとスライドレバーが電動で動くので感動した(FS-30では音色は変わるがスライドレバーは動かない)。
6級に合格したので、5級を目指そうと思い、別の先生に習うことになった(結局5級は受験せずやめてしまったのだが…)。一応演奏グレード5級を取ればエレクトーンの先生になれるという話であった。これに合わせて、エレクトーンを買い替えた。
F型の後継機種のHS-8という機種で、90万円だった。よく親も買ってくれたものだと思う。今更ながら本当に感謝している。
↑ HS-8
HS-8は本当にすごい機種だった。D-60からの買い替えだったので、別世界であった。AWM音源というのが搭載されていて、ピアノやパイプオルガンなどの音は、本物の楽器の音色そのものであった。リズムやレジストレーションも完全にプログラムすることができたし、リズムパターンそのものもプログラムできた。ほぼシンセサイザーであった。ベースも1オクターブ半に増強された。RAMパックというのが用意されていて、作成した曲ごとのレジストレーションを保存することができた。ただこれが一つ何千円かしたので、レパートリーが増えるとお金がかかることになった。
↑ HS-8の鍵盤
この機種に変えて、これまで習ってきた若い女性の先生方が習いに行くレベルの先生(つまり自分から見ると先生の先生)に習いに行き始めた。この頃はこれまでが嘘のように一日に数時間、エレクトーンを練習した。楽器というのは練習すると上手くなるということを実感した。
習いに行き始めたS先生は、これまでの先生とは違い年齢的にもたぶん40代後半くらいで、レッスンも厳しかった。レッスンの最初の10分間は、エレクトーンの隣においてあるピアノで必ずハノンをやった。本当はもっと小さな時からやるべきことだったのだろう。また、自分は初見演奏や即興演奏が苦手で、とてもグレード5級に合格できるとは思えなかった。
それでも演奏することは好きなので、レパートリーは増えていった。以前通っていたY教室の発表会にゲストで呼ばれたこともあった。その時の動画が残っている。
そうこうしているうちに自分は会社に就職した。就職してもレッスンには通い続け、発表会にも参加して曲目も2曲用意して臨んだ(A Night in Tunisia, Dizzy GillespieとThis Masquerade, Leon Russellの2曲)。その後、さすがに練習時間を思うように取ることができなくなり、社会人2年目にはレッスンに通うことを断念した。2年目の社員となった頃、たまたま楽器店の前を通ると新型のエレクトーンのデモをやっていた。機能も音もさらに進化しているようであった。
96年に結婚して98年に長男が誕生した。長男が幼稚園に通い始めた頃、武蔵境のヤマハ音楽教室幼児科に通わせることになった。たまに自分が長男を連れてレッスンに行くこともあった。その時レッスンに使っていたのが、EL-900という機種であった。
↑ EL-900
この頃までは、たまに自宅で演奏もしていたが、やはり電子機器というのは壊れていくもので、HS-8も音が鳴らなくなった。一度修理したのだが、あまり使わないと劣化するようで、やがて故障してしまった。
2004年に本体を買い換えることなく機能の改良・拡充ができるというSTAGEAという機種が発売された。数年ごとに新機種に買い替える度、何十万円も出費する必要がなくなるという意味でも画期的だと思った。
↑ STAGEA
これは欲しいと思った。もういい大人だし金銭的には問題なく購入できるが、これを使いこなせる演奏ができるようになるための練習時間は取れないので、演奏を聴くだけだった。ヤマハの楽器展みたいなイベントにまだ小さい長男と出掛けて、富岡ヤスヤさんなど人気プレーヤーの演奏を聴きに行った。
現在はSTAGEAも2代目になったようで、you tubeなどでもプロのプレーヤーの方々の演奏も楽しめるので、たまに見ている。自分が関わったエレクトーンの中でどれが一番いいのかというとE-70だ。you tubeにはオールドエレクトーンの紹介や演奏動画が結構アップされているので、今でも音色を楽しむことができる。
故障したHS-8は、2014年に泣く泣く廃棄した(家人が子供の時から使っているピアノはまだ健在だ。アナログ機器の寿命が長いのはカメラと同じだ)。いつかまだエレクトーンをやりたいなと思う一方、何か別の楽器を始めるのもいいかも、などと思っている。楽器が上手くなるには練習しかないので、その時間が取れる余裕が欲しいものだ。
※エレクトーンの画像は、全て下記のサイトから拝借しました。