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ないものねだりとあるものさがし
[ないものねだり]って本当に悲しい。
よく「ないものねだりなんだけどさ…」って言葉から話を始めたりする。
私は今海外にいて、海外の短大卒業して、海外で就職してって、
約4年前の高校卒業時には考えもしてない生活してて、あの時の自分に今はこんなことしてるよって伝えたら目ん玉飛び出すほど喜ぶとおもう。
けど最近は、ないものねだりばかり。
すぐ日本はいいなぁとか、讃岐うどん食べたいーとか、香川旅行したいーとか、中学の部活グループで集まれていいなぁとか。
今手に入らない向こうにあるものばかり
見つめて、見つめて、見つめて、
結局何も得ず悲しい感情だけ残る。
ないものねだりっていつもそんな風に終わる。
けど前までないものねだりって誰もがする当たり前の感情だと思ってた。
例えば、天パの人はストレートが羨ましがったり、少食の人は大食いになりたいとか、社会人は学生に戻りたいとか。
誰もがそんなジレンマを抱える日はあるのが普通で、必然の感情だと思ってた。
けどないものねだりの感情って
ただシンプルに不幸の種だなって思えてきた。
じゃあその不幸の種の反対は
幸せの種?
ならその幸せの種は何なのかって考えた。
ないものねだり= 不幸の種
[ ? ] = 幸せの種
ないものねだりの反対の言葉って
私で言うと、
日本にいる海外で働きたい人の気持ちを考える。なんて他人比べの最低な優越感。
なんて卑しいもんじゃなくて、
[あるもの探し]
なのかなって思う。
今ないものを羨ましがってもほんと意味がないよね。
ないものを見つめるんじゃなくて、
今あるものを大切に、ここまでこれたことと、ここまで一緒に来てくれた心身に感謝する。
それだけじゃない!
今に至るまで、私の手元にあったその時幸せって感じさせてくれたもの。
それが数ヶ月後にはもう幸せじゃなくなってて、幸せを手に入れた後はまた別の手に入れたいものを探して、幸せになろうとしてる。
あの時手に入れて幸せって思ったものもはまだ手の届くところにあるのに。
今ある手に入れた物、今過ごしてる環境・状況、がなんで今そばにあってそこにいるのかを忘れちゃいけなかった。
4年前に無理半ば目指した、
[英語で準学士号を取る]ってゴールは
成長した4年後はそれくらい取れるよって今の目線でしか計れなくなってる。
自分への期待値が上がってて、認めることが難しくなってる。
今、ほんとこの瞬間の今しか見えてなかった。
だから数ヶ月前の幸せやここまでくるまでに努力して手に入れた幸せってものに目が届いてなかった。
だからないものねだりじゃなくて
あるものさがし。
こんなにあったんだって思える日まで
今私を支えてくれてるものを肯定する日々を心がける。
考え方の違いで普段の日常が少し明るくなれるって話でした。