オリンピック考
始まりましたね。オリンピック。そして、終わりましたオリンピック。
世界中からアスリートが集まって、スタッフも集まって。
お祭りでしたが、無観客、アスリートによっては盛り上げを求めるジェスチャーをして、自分自身を鼓舞しようとする姿がありましたが、大音量の拍手は無く。
モチベーションを上げていくのが大変だろうなぁと思いましたが、そこは歴戦のプロたち、結果を残しています。
結果を残せなかったことは、理由があるのでしょう。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし、です。
毎回、オリンピックを観ます。僕は観客としてです。当事者ではない。
すごい世界だと思います。
自分の人生の大半を賭けて挑んできたアスリートたちの努力の結晶を目の当たりにできます。
金メダルを手に入れた人の、喜びの表情、すばらしい姿であると感じつつ、ここに至るまでにどれだけの時間を費やして来たのだろうと考えます。
アスリートによっては、その競技人生がスタートしてから、自分の人生のほとんどの時間をその競技に捧げてきた方もいるのでしょう。
その競技以外でやりたいこともあったでしょうが、だんだんと選択肢を絞って、一本化して、極め、舞台に立ったわけです。
淡い興味から飛び込んだ世界で、いつしかそれが全てになる。生きがいになる。それでその方の人生が充実するならば、すばらしい生き方であると言えます。
そんな人生の集大成というか、結果を残すという側面から考えると、オリンピックにはとても大きな意義があるように思います。
鍛錬を重ねた人間の集約されたまばゆい光。
4年に一度の開催ですから、年齢のピークと言うか、運もそこには関係してくると思います。一番いいときに出場できたら、そりゃいいです。ピークで出場できなかったら後悔します。
だとしても、もう一年延期でも良かったよなぁとか、いっそのこと中止でも良かったなぁ、と思ってしまいます。
その考えの根拠は、新型コロナウイルスです。
日本中が上へ下への大騒ぎになっている状態でやることは無かった。むしろ、1年延期にしたときに一年後、大丈夫にしておかないといけなかった。
きっと、一年前、たくさんの偉い人たちは、一年後、「さすがに大丈夫だよね」と考えていたはず。それがこれです。大丈夫じゃなかった。ワクチンは行き渡らず、集団免疫も獲得できず、無観客でのオリンピックになった。
大丈夫にできませんでした。それだけウイルスが狡猾なのか、それとも人間が無力なのか。
どっちもあるでしょうね。それだけインパクトがある。全世界的パンデミック。日本で感染が抑えられたとしても、他の国からまた持ち込まれる可能性もある。
ウイルスをあなどったのか、自分たちの力を過信したのか、どのみち、判断がにぶった。今現在も感染者は増え続けています。
ある一面、オリンピック関係者を見渡せば、全員が感染とはなりませんでした。守られた環境の中で、最大限のパフォーマンスを発揮していた。
ですので、わからないですけど、オリンピックが開催されて、人が集まったら、感染が広がる、は、あまり根拠のない考えかもしれないですね。
感染していない人が来日するわけですし、感染していたとしても然るべき処置を施されますので、大丈夫であった、と。
オリンピックがやっているのだから、気の緩みで、感染が拡大している、はたして本当にそうでしょうか。何度も何度も、これが最後の緊急事態宣言にします、という、決断を聞かされました。それでも解決しない現状、もういい加減、我慢できないのも無理ないかもしれません。マスク生活が随分と長くなりました。
気の緩みももちろんあるでしょうが、そもそもみんな同じ人間ですから、永遠の我慢などできません。修行僧ではありませんから、我慢だけをし続けるわけにもいかない。気の緩みも含めた感染拡大防止策を考えられていたら。現実としてとても難しいでしょうが。
こうして、オリンピックの一連の流れを見てみると、オリンピックはもはや、一つの国がどうこう言えるものではないということがよくわかりました。決まってしまったらやるしかない。
立候補する国や地域はよく考えて手を挙げないといけない。本当によく考えないと。
最近の感染拡大、
オリンピックがひとつのきっかけになっているとは思いますが、もしかしたら、もはや諦めに近い感覚なのかもしれません。かかってしまっても仕方ない。誰も守ってくれない。
長い目でみたら、ワクチンにはメリットしかありません。僕はそう思います。
まったく免疫のない僕らに対して、新型コロナウイルスは猛威を奮っています。かかってしまったら、死んでしまうかもしれない病気で、免疫という防衛機能が働かないのはそれこそ死活問題です。
ならば、外側からその免疫を構築しようというのが、ワクチンです。
ワクチンは過去からありました。新型コロナワクチンが人類が初めて作成したワクチンではありません。
ワクチン接種を嫌がる人たちの気持ちがわからないわけではないですが、打たないことでのリスクも考えてみたらいいのに、と思います。ワクチンを打って、異常が起こるのは自然なことと思います。異物が入ってきたら、人体としては防御機能を発揮させる、無視はできない。異常が起こり、そこを乗り越えるからこそ、免疫機構ができあがってくる。そんな風に思います。
目先の痛みや発熱、よりも長い目で見て、できることはやったらいいのに、と、思うのです。
ワクチン接種は、個人の自由ではありますが。ただ、痛みや死の恐怖にからめとられてしまう気持ち、わかります。
僕も過去に暗闇の淵を覗き込んだ経験があります。
もしかしたら、目先のことで手一杯なのかもしれない、とも感じています。
お金が無いと生きていけないのに、仕事がうまくみつからない、思っているほど稼ぎがない、欲しい物が手に入らない、こんなはずじゃなかった。
無料でワクチンが打てるとしても、そこには痛みを始めとした体の異常が伴う可能性がある、どうして自分が打ちたいと決めたわけじゃないのに、そんな痛みを背負わないといけないのか…。
理不尽だ。不自由だ。不服、不安、心配…。
人生ままならんものです。うまくいっていると思っていてもすぐに足元をすくわれてしまう。こわいものです。
理不尽だと思っていると、その理不尽に対して、反抗したくなります。普段、よくしてくれないのに、なんであなたの言うことを聞かないといけないの?
と、なります。
だから、国が言うことは、右から左に流してしまいがち、なのかもしれません。たくさんの理不尽と不誠実な態度の積み重ねが、ワクチン接種の遅れを生んでいるかもしれない。
打って、死んでも、国が蘇らせてくれるわけではない。命の保障がないのに、危ない橋は渡れない、自己責任、なんでしょ?ということ。
オリンピックはアスリートの真剣な心と態度が可視化されていました。不誠実なニュースが聞こえはしましたが、内実をよく確かめると、納得できるものばかり、非協力的な方はアスリートにはなれないのだと思う、協力できるからアスリートになれる。感謝の心があるから、がんばれる、そんなところを考えました。
翻って、結果がないと他者への信頼を見いだせない、人間の存在。人間関係の希薄さはここまできたのか、という感覚です。この国に欠如しているものは何でしょうか。
愛情?おもいやり?おたがいさま?分け与えること?助け合うこと?
いつまでも、新型コロナウイルスに打ち勝てません。
いつまでも、戦争の傷が癒えません。
いつまでも、大震災の被災地が復興しません。
いつまでも、環境破壊が止まりません。
いつまでも、地球温暖化が止まりません。
いつまでも、自殺者がいなくなりません。
いつまでも、虐待が無くなりません。
すべてが幸福になるとは理想論です。誰かの幸福は、誰かの不幸と隣り合わせです。
後回しにして、ないがしろにして、見て見ぬ振りをして、そこにオリンピック開催と新型コロナウイルスがやってきました。
いろいろなものが見えました。見えてきました。人間とはおっかないものです。
オリンピックは感動しました。
野球が好きなので、野球で金メダルが決まった瞬間、自宅で大声を出しました。嬉しかったです。
がんばる姿は美しい。
いつまで、続くのでしょう、この生活は。
さすがに来年の今頃は、マスク無しで生活しているでしょうか。
誰にもわからないかもしれませんね。新しいウイルスが発生しないとは言い切れませんから。
だとしたら、前を向くのがいいのかもしれませんね。
目の前の生活を大切にしながら、
自分で考えて選択し、選択したことに責任を負っていく。
そうして、少しずつ、自分の信念にしたがって、正しいと思われる方向に進んでいく。
その集約が、実りある未来につながっていくのかもしれません。
オリンピック、次は、パリです。
冬のオリンピックもありますね。
オリンピック、全世界中から人が集まる祭典。
これからも続いていく祭典。
人間の世も、どうやらまだ続きます。
僕は僕の頭で考えて、選び、また考えていきます。