2024.10.4 前髪
青い空を眺めていたらいつの間にかうつらうつらしていたようだ。教室の白いカーテンが風でなびいたらしく、どこかで鉛筆の落ちる音がして、わたしは薄く目を開き大きなあくびをした。黒板に板書をしていた国語の先生が手を止めて振り返っている。窓際に座る生徒の教科書と鉛筆が落ちたようだが、先生は何事もなかったように黒板に向き直り板書の続きを書き出した。
〈まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり〉
遠くに蝉の声を聴きながら黒板に書かれた文字をノートに書き写す。
「この詩は島崎藤村が幼馴染との初恋を詠んだ詩です。当時の女子は十二~十四歳くらいで前髪を上げて日本髪を結い、大人の仲間入りをしました。中三の皆さんの中にはこのような藤村の恋心がわかる人もいるかもしれません。」
ノートから顔を上げると、前方に座る和美がこちらに手を振っているのが見えた。手には小さな紙を持っている。前の席から送られてきたメモ用紙には丸い文字で〈お昼休みにパン屋についてきて♡〉と書かれていた。和美はこちらを向いて返事を待っている。わたしは指でOKと返事をし、頬杖をついて窓の外に広がる空に目を向けた。
わたしの通う中学校に給食はなく、昼食を持参することになっていた。校内に購買もなく、事前に用意ができない場合はお昼抜きとなる。わたしは毎日母の手作り弁当を持参していたが、母のいない和美は自分で用意するしかなく、たびたび学校の三件隣にある駄菓子屋兼パン屋に学校を抜け出して買いに行っていた。その日もわたしと和美は授業が終わると上履きのまま、職員通用門から抜け出してパン屋に向かった。陽射しが強く、アスファルトの熱が上履きの薄い靴底から伝ってくる。目の前には他のクラスの女子三人組が笑いながら手を繋いでだらだらと歩いている。
「こんな暑いのによう手を繋ごうって気分になるな、早よしてほしいわ」
思わず口から本音がこぼれる。和美が苦笑しているのが見なくてもわかる。狭い店で女子三人組の買い物が終わるのを街路樹の木陰で待ってから、和美とわたしは菓子パンを買って急ぎ足で学校へと引き返した。
職員用の通用門を入り、渡り廊下に差し掛かったところで、下を向いて生徒指導と学年主任の体育教師と話す女子三人組が見えた。教師のひとりがこちらを向いた。とっさに周りを見渡すもの隠れる場所もなく、教師の手招きに応じて学年とクラスを伝え、買ったばかりのパンを差し出した。先に捕まった女子三人組は一人と二人に分けられ、わたしは三人組のうちの二人と一緒に職員室隣の空き部屋の床に正座させられた。学年主任の体育教師はわたしたちの前に置かれたパイプ椅子に座り、黙って腕組をしながらこちらを見ていた。椅子の横には竹刀が置いてある。わたしは唾を飲み込んだ。
「おまえら、学校にルールがあるんは知ってるやろ。おまえらみたいにルールを守らん奴らがおるから、学校が乱れるんや。ルールを守る、中三にもなってそんな当たり前のこともできへんのか」大きな声で言いながら体育教師は竹刀を持って立ち上がり、うつむいて正座するわたしたちの前をゆっくりと歩いた。
「なにしに外に出たんや」端に座る女子の前でしゃがみこみ、怒鳴りながら顔を覗きこんでいるのが視界の隅で見える。すすり泣く声が聞こえる。女の子にすごんで泣かして何様のつもりやねんとだんだん腹が立ってきた。
「パンを買いに行きました。すみません。もうやりません。ごめんなさい」
泣きながらひとりが答える。続いてもうひとりも「ルールを破ってごめんなさい」と頭を床にこすりつけるようにしてわざとらしく泣き出した。体育教師は満足したように立ち上がり、竹刀を持ったままこちらへ歩を進める。わたしは両手を握って太ももに乗せた。ひんやりとした感触があった。指先が冷たい。
「おまえはなにしとってん?」頭の上から低い声が聞こえる。見下ろしているのだろう。偉そうに、なんでこんなおっさんにおまえ呼ばわりされなあかんねん。下っ腹に力が入る。わたしは顔を上げて前を見た。
「買ってきたもの見たらわかるでしょ。外に出るなというなら鍵をかけるか、弁当の用意ができない子のために学校の中に購入できる場所を作ればええんちゃいますか。みんなが毎日弁当を用意できるわけじゃないんです。女の子泣かして楽しいですか」
「誰に向かって口きいとんねん」体育教師は膝を曲げて腰を落とし、怒りが滲む声でこちらを睨みながら前髪を掴んで引き上げる。
「痛い!」顎上がり腰が浮いた。指先が震え、頭から血の気が引いていく。
「誰がそんなこときいとんねん。聞かれたことに答えろや。買いに行こう言うたんは誰や」
髪を掴む手が弱まる気配はない。頭ごなしに怒鳴り散らすだけのこんな教師、嘘をついてやるほどの価値もない。
「和美です」痛みに顔を歪ませながら答える。体育教師は頭を投げつけるように手を放した。体勢を崩したわたしは倒れこみ、体育教師を睨みつけた。
その後、わたし以外のふたりは解放され、謝まることなく泣きもしないわたしは昼休憩中もひとり廊下で正座することになった。掃除の時間、様子を見に来た和美に、同じくひやかしに来た女子三人組が笑いながら言った。
「こいつ、格好つけて和美のこと教師に売ってんで。裏切りもんやん。だからあんたも余計に怒られることになったんやで、アホやな、友達選びや」
「ほんまなん?」わたしがうなずくと、和美はそのまま廊下を走っていった。わたしはただ背筋を正して座っていることしかできなかった。