2024.6.21 女性性とGAMAN
先日YouTubeで男性の方が「これからは女性性の時代ですよ」と話していた。10年ほど前の動画だった。大阪弁の男性は続けて「女性っていうのは、とても我慢強い。僕ら鍛えてますけど、出産とか男がやったら失神しまっせ」「男の質と女の質は全く違う。同じように鍛えても男の方が力が強くなるように、男女平等とか言うても何から何まで同じにはならんのです。だから昔は女性が生み育て、男性が狩りに出ていたんです。それはそれぞれの質に合わせていただけで差別だとかそんな話ではない」と言っていた。
この話を聞いてからずっともやもやしている。話自体は論理的にも納得がいくような気がした。夏至が近いからか満月が近いからか、ひどく眠く思考がまとまらない。普段からあれもこれもやりっぱなしが多いが、ここ数日は拍車がかかったような気がする。昨日は思いついて車を走らせ8時間300キロ、延々と田舎道と山道を走って神社と巨樹を渡り歩いた。疲れと興奮で眠りが浅く、家事も終わらせることができない。そんな中、明日から接心(坐禅集中期間。わたしは家でひたすら坐る)が始まる。何も手につないとはこういうことなのかと思いつつ、吉と出るか凶と出るのか不安と楽しみが入り混じる。
私が件の話に引っ掛かりを感じたのは「女性は我慢強い」という言葉だった。めんどくさがりの自分が我慢強いなどと思ったことはないが、子どもを5人生み、猫4匹と生活を共にしつつ、家事育児に協力的ではなかったパートナーを選んだ時点で、毎日の家事育児が自分を鍛えるための修行となっているのは疑いようがない。加えて家事も育児も苦手である。最近は、坐禅もわたしの傲慢な自我が暴れ出さないために取り組んでいるような感覚がある。こんな自分が我慢強いとはお世辞にも言えたものではないが、女性という性は我慢強さを身につけるための修行だと思えば、そんな気がしてくるから不思議だ。修行が好きな訳ではないが、昭和生まれ特有の「壁を越える」ことへの憧れや渇望が、自分の置かれた状況を修行だと錯覚させるのかもしれない。そんなことを湯船の中で考えながら、視界の端に映る壁の隅の黒いカビから目を背けた。