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2024.8.29 向日葵のような人
晴れた日の朝、陽の光に目を細めつつ布団を干していたら、太陽の匂いに友人兼親戚のAちゃんを思い出した。涙もろく竹で割ったようなカラッとした性格の彼女は大陸にルーツがあるからか、ある種の力強さが備わっているように思う。輪郭も足元もあやふやなわたしはそんな彼女が眩しく、時に羨ましく感じる事がある。
小さな頃から本ばかり読んで人と接することが少なかった影響か、わたしが生きる世界は常に夢から醒めたばかりのようでピントが合わない感じがしていた。夢見がちだったわけではなく、映画の余韻を残したままランチを食べたり電車に乗る感覚に近かい。ぼんやりとしてる間に時間は過ぎていき、思春期のわたしは世界に必死でついてゆくようになった。
思春期のわたしは現実とは世界とはこういうものだと、まわりを見渡して断定的な輪郭を手に入れたものの、言い切るような断定的な物言いは言うのも言われるのも苦手だった。あやふやで変化を伴う感情を言葉にする度に、どこか嘘をついているような気がして、あえて言い切ってみるものの、言い切ることで自分を縛りつけていたように思う。人一倍承認欲求が強いのに、わたしが話す内容は何処かで誰かが話したり書いたりしたものを寄せ集めただけの薄っぺらいもので、その事実が余計に他者承認を求めることとなった。
30歳を過ぎて40歳を過ぎて、人の視点は常に一方向的で、360度立体的、多角的に物事を捉えることはできないと知った。正しさや良かれと思うことでさえ、違う方向から見ると悪にも偽善にも見えた。ただひとつの正解なんてどこにも無いのだと知ると、足元がぐにゃりと歪み、自分を支えるための杖として真理のようなものを求めはじめた。ここでもまた、真理とは誰からみたものなのかと自分の中で問いが生じた。これは正しさと同じで正解のない問いだと、堂々巡りにハマっていると気がついたとき、足元が揺らいでいても、映画や本の余韻の中に生きていてもいいのではないかと開き直ることができた。わたしの世界は常に余韻の中にあるのだ。
話は冒頭に戻る。どんなに憧れようとわたしはAちゃんにはなれない。人は自分には無いものに憧れるという。わたしは力強くわが道を邁進する彼女をこの先も羨ましいと思うのだろうと、布団の匂いを嗅ぎながら考えていた。
この話を読んだらきっと彼女は、わたしの方こそ「わが道を生きてる」と向日葵のように笑う気がする。