2023.11.5 小説「サイン」

パートの帰り、家に着いた晴子はいつものように自宅のポストをのぞいた。クラフト封筒が見える。ポストから封筒を取り出し、脇に挟んで家のドアを開けた。リビングのソファに荷物を下ろして封筒を確認する。封筒はガムテープでしっかり封をされていて、丁寧な文字で《坂本晴子様》と書いてあった。差出人は《自然スピリット研究所》となっている。
 自然スピリット教育の名前は長男が小さなころから耳にしていた。芸術教育とも呼ばれ、芸能人や意識の高い人たちが関わるもので、保育園とパート先を自転車で駆け回る晴子には関係のない世界だった。中学生になった長男を筆頭に保育園に通う末子まで、四人の男の子を育てる晴子の毎日は家事と育児で目がまわるような忙しさだ。
 ある日、なんとなくのぞいたSNSで高校の同級生が自然スピリット研究所の勉強会に行ってきたことを報告していた。
「わたしも自然スピリット教育に興味があるの」
晴子がお愛想のようなコメントを残すと、翌日には一緒に勉強会に行かないかと同級生からメッセージが届いた。久しぶりに会いたかったが、休日は子どものサッカーで自分に使う時間がないため、同級生おすすめの本を読むことにした。絶版の本が出版元にあると聞いて、購入の希望を出版元に伝えたところ、著者のサイン入りの本を送ってくれることになった。
リビングでビリビリと行儀悪くクラフト封筒を破りながら、晴子は今朝の夫の疲れた顔を思い出した。仕事の付き合いがあるからといって、平日から午前さまになるほどお酒を飲むのはやめてほしいと話すたびに「うん」となま返事だけが返ってくる。数年前から健康診断でも肝臓の数値が芳しくなく、再検査で病院に行くものの、処方された薬はほとんど減っていない。ため息をつきながら封筒から本を取り出す。封筒の宛名書きと同じ文字でお礼の手紙が同封されていた。著者のサインの方は弱々しく古めかしい文字に見える。パラパラとページをめくる。時計に目をやると保育園の迎えの時間まで少し余裕があった。晴子は届いたばかりの本を持ってキッチンに向かい、湯を沸かしてコーヒーを淹れた。コーヒーを飲みながらキッチンの踏み台に座って本を読みすすめる。本には子どもの教育よりも、魂の生きかたについて書いてあった。

 翌日、晴子はめずらしく早く帰った夫に、生まれてはじめてサインを書いてもらったと、届いた本を手渡した。本を受け取った夫はリビングのソファに座り、本のページをめくりはじめる。晴子はキッチンで料理を盛り付けながら経緯を説明した。
「サイン……」
 夫が何か言いかけた気がした。リビングのテーブルに料理を運びながら、晴子は夫に視線を向けた。夫は開いた本のページを見つめて眉間に皺を寄せている。晴子は夫に近づいて本を覗き込んだ。
「この本を書いた人、すごくおじいちゃんみたいね。サインがどうかした?」
「宛名が《坂本カズミ》になってるんだよ」
 カズミは亡くなった夫の父の名前だ。晴子は夫が差し出した本を受け取り、じっくりとサインを眺めた。著者のサインの右隣に古めかしい文字で《坂本カズミさんへ》と書いてあった。
 一瞬の空白の後、腰のあたりから頭の先まで鳥肌が駆け抜けた。本を持っていない右手が力なく左腕を掴む。脳裏に写真で見た義父の顔が浮かぶ。義父は酒の好きな人だったらしい。毎晩浴びるように飲んでは気が大きくなり、経営していた喫茶店やスナックを友人に譲ってしまい、食べることに困った時期もあったという。最期は重度の肝機能障害で夫が中学生のころに四十九歳で亡くなったと聞いている。義父が亡くなったのは今の夫と同じ歳だったことを思い出して、左腕を掴む右手に力が入った。
「本の内容をきいてもいいか?」
 夫に聞かれて晴子もソファに腰を下ろした。
「豊かさとはなにか、本当の自分とはなにか、自然に還り魂の求める生きかたをしよう。そんなことが書いてあるの」
「俺も読んでみようかな」
「いいけど、先にご飯を食べてくれない?」
 晴子は立ち上がりキッチンへ向かった。

                   了

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