2023.9.30 欲を優先しても欲しいものは手に入らない
秋の接心が近づいてきた。
お寺で7〜10日の間泊まり込みで集中的に坐り続ける期間を接心と呼ぶらしい。昨年老師が声をかけて下さり、今年は思い切って6月10月12月と申込んでみた。子どもの世話があるのでオンラインで繋ぎながら一日中自宅で坐る。
6月の接心は4月5月の新学期の慌ただしさが落ち着いてると思っていたが、普段から全く坐れていないのに急に1日5.6時間も坐るものだから、幼少期に痛めた股関節が痛み全く集中できなかった。
今回も10月なら夏休みが終わり、運動会も終わって集中できそうだと思ったが、夏休みが終わっても全く坐る時間を作らずダラダラしている自分に呆れて、せめて坐禅会くらいはとお寺に足を運んだのだ。
結果は散々だった。
毎日のように何時間も坐っていた時期があり、これか!と叫びたくなるような体験もして、わたしは満足していたのだろう。また坐ればすぐにあの体験が待っているなんて、そんな簡単に考えていたわけではない。だが坐るうちに背中や股関節が痛み、簡単な所作ですら注意を受け、何年経っても初心者の域を出ない自分に嫌気がさしてきた。慢心していた自分が酷く情けなかった。
坐禅は良くも悪くも今の自分がそのまま浮かび上がる。坐禅に善きも悪きもなく、良い悪いと言うのは己の自我のみだと老師はおっしゃるけれど、自分の甘さや適当さが露呈することほど居心地の悪いことはない。ありのままの自分を受け止めることより、あれが悪いこれが良くないとわかったフリをして言い訳するほうが楽なのだ。老師の話では人は楽なほうに流れるのだという。
あれもやりたい、これもやりたいと欲を優先しても欲しいものは手に入らない。楽を選んでも同じことだろう。
叶うならこの日の居心地の悪さを一生忘れませんように。
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