#1911 中動態としての教育を
今回の記事は、國分功一郎氏の著書『中動態の世界』から着想を得た。
まず論を展開する前に、前提となる「能動態」「中動態」「受動態」の定義を確認しておきたい。
「受動態と能動態」を対立概念として説明する場合、受動態は「される側」を指し、能動態は「する側」を指す。
これは、ごく一般的な見方と言えるだろう。
これに対し、「中動態と能動態」を対立概念として説明する場合、中動態は主体が出来事の「内側」に存在するものであり、能動態は主体が出来事の「外側」に存在するものである。
言い換えれば、中動態では主体の行動が内側で完結するのに対し、能動態では主体の行動が外側に影響を与えることを意味する。
これは、一般的には知られていない特殊な見方と言えるだろう。
以上のことを整理する。
「能動態」は自己の内側に動機があり、自己の行為が外側に影響を及ぼす。
「中動態」は自己の外側に動機があり、自己の行為が内側に影響を及ぼす。
「受動態」は自己の外側に動機があり、自己が客体として動かされる。
※しかし、純粋な「能動」というものは存在しない。なぜなら、人間は社会的動物であり、何らかの外的要因(環境)から少なからず影響を受けているからである。外側から何の影響も受けることなく、全くの自由な身で、自らの外側に影響を及ぼすことができる存在は「神」のみだからである。よって、純粋な「能動」は存在しえないが、質的にそれに近づけることはできる。
※さらに、純粋な「受動」というものは考えにくい。なぜなら、人間が他の人間に行為を強制させるとき、無理やり手を掴んで動かすことはしないはずだからである。これは、その人間が対象となる人間に「暴力」をすることになり、まさしく「受動」という形になるからである。よって、社会通念的に純粋な「受動」は考えにくいが、質的にそれに近づけることはできる。
この前提を踏まえて、以下に論を展開していく。
教育という営みにおける「能動-中動-受動関係」
教育という営みには、「教師」という大人と、「児童・生徒」という子どもが存在する。
教師は「能動態」として、自らが担任・担当する児童・生徒に、何らかの教育活動を行使することができる。
※教師は「神」ではないので、この場合は「純粋な能動」ではない。
それは、指示・命令・威圧などの類である。
ここには、「権力」という概念が働く。
このとき、教え子としての児童・生徒は「中動態」か「受動態」になるかの選択を迫られる。
「中動態」の場合、児童・生徒は「非自発的同意」のもと、勉強をすることになる。
もちろん、児童・生徒は「自発的にその勉強をしたい」わけではない。
教師の権力や学級の雰囲気など、様々に考えられる要因により、「勉強をしなさい」という教師からの暗黙の提案に「同意」しているのである。
よって、このような「非自発的同意」のもとで勉強をする場合、児童・生徒は「中動態」となる。
一方、「受動態」の場合、児童・生徒は「同意せずに」嫌々勉強をすることになる。
文字通り、「勉強させられる」という受け身の形となる。
※教師に無理やり腕を掴まれるなど、物理的に強制されるわけではないので、この場合は「純粋な受動」ではない。
しかし、ここでもう一つの選択肢の可能性も考えられる。
「何もしない」「ボーっとする」という選択肢
「非自発的同意」でもなければ、「同意せずとも嫌々する」でもない選択肢である。
それは「何もしない」「ボーっとする」という選択肢である。
※「何もしない」という言葉は「行為」「行動」として規定することはできない。よって、「ボーっとする」という類似表現を付加する。
教師からの権力を感じつつも、「何もしない」「ボーっとする」という行為を選択する場合である。
これは、「能動」と言ってよいのだろうか?
確かにその児童・生徒の中に「絶対に勉強などしない」という強い「意志」が感じられる。
そのため、「能動」ということもできそうである。
そこでもう一度、「能動態」の定義を確認する。
「能動態」は自己の内側に動機があり、自己の行為が外側に影響を及ぼす。
この定義に当てはめると、前半はクリアできるが、後半はやや違っていると言わざるを得ない。
「何もしない」「ボーっとする」という行動は、「外側に影響を及ぼしてはいない」からである。
しかし、「何もしない」「ボーっとする」という行動ゆえに、「教師が不快感を覚える」「周りの児童・生徒が負の影響を受ける」という作用はあるかもしれない。
よって、「何もしない」「ボーっとする」ことは「能動である」と見なすこともできよう。
また、別の見方もできる。
教師からの権力・圧力という外的要因により、児童・生徒の「何もしない」「ボーっとする」という行動が生起された。
つまり、他に行動の選択肢があった中にもかかわらず、目の前の教師の影響によって、「何もしない」「ボーっとする」はめになった。
これはまさしく「受動」であると言えよう。
さらに、教師に動かされたわけでもなく、ただ自分は「ボーっとする」という選択をとった可能性もある。
この場合は、「中動」であると言えよう。
いずれにしても、児童・生徒が「何もしない」「ボーっとする」という行動選択をしてしまった以上、それは「教育的」ではない。
「非自発的同意のもとで勉強する」、あるいは「同意せずとも嫌々勉強する」という道を児童・生徒が選択できるよう、教師は志向しなければならない。
能動的に「やりたいことをする」のはダメなのか?
では、児童・生徒が「非自発的同意」でもなく、「同意せずとも嫌々する」でもなく、自分が「やりたいことをやりたいままにする」という行動はいけないのか?
このような行動は、「能動」を意味する。
「能動態」は、自己の内側に動機があるのだった。
よって、「自分のしたいこと」「自分の知りたいこと」という内的要因が、外的要因よりも最優先される。
これは一見望ましくも見えるが、学校教育には「学習指導要領」が存在することを忘れてはいけない。
さらには「時間割」「授業時間」「教室」という様々な制約がある。
つまり、「学ぶべき内容」が規定され、「学ぶべき時間・場所」が限られているのだ。
このような状況では、諸々の外的要因、つまり外側の動機を完全に無視することはできない。
常に「能動態」として行動すれば、「学習指導要領」から逸脱してしまうし、様々な制約からはみ出してしまう。
つまり、他者に迷惑をかけてしまうのである。
したがって、「やりたいことをする」という「能動」は身勝手なのであり、それを「教育」という営みで許してはいけないのだ。
しかし、それを限りなく「能動態」に近づけるよう、制約を緩めたり、学べる内容の範囲を広げたりすることはできる。
時間割を撤廃したり、教室以外の場を開放したり、授業時間を柔軟にしたり、総合的な学習の時間で学習内容を子ども発にしたりなど…。
このような工夫により、子どもの「学びたい」「活動したい」という能動性を少しは受け止めることができるようになるだろう。
けれども、やはり「限界」はある。
完全な「自由」を保障することはできない。
「強制」することもないが、「自由」にさせることもできない。
教育という現場は、やはり「中動態」がしっくりくる場所なのである。
教師も社会的に「能動-中動-受動関係」に組み込まれている
論のはじめの方で、「教師は『能動態』として、自らが担任・担当する児童・生徒に、何らかの教育活動を行使することができる」「このとき、教え子としての児童・生徒は『中動態』か『受動態』になるかの選択を迫られる」と述べた。
しかし、教師自身も、実は「中動態」か「受動態」になっているのである。
それは、教育公務員として、「国家」という権力の元で働かされているからである。
つまり、教育委員会、文部科学省などを含めた「国家」は「能動態」として、管轄する教師たちに、指示・命令を下しているのだ。
このとき、教師は「中動態」か「受動態」になるかの選択を迫られる。
まさに、「教師-児童・生徒」の構図と同じなのである。
「中動態」の場合、教師は「非自発的同意」のもと、所属校で職務にあたることになる。
国家の権力や報酬のためなど、様々に考えられる要因により、「職務を全うしなさい」という国家からの暗黙の提案に「同意」しているのである。
一方、「受動態」の場合、教師は「同意せずに」嫌々職務にあたることになる。
文字通り、「働かされる」という受け身の形となる。
このような状態の教師は、「不適格教師」のレッテルを貼られることになるだろう。
しかし、完全なる「能動態」になることはできずとも、教師が質的にそれに近づこうとすることはできる。
「目の前の子どもたちの成長のため」「社会全体のウェルビーイング」のため、自発的に研修と修養に励み、自己研鑽を怠らない教師になっていくことはできるのだ。
しかし、児童・生徒の場合と同様に、完全に教師の「自由」がまかり通ってはいけない。
教師の「やりたいこと」が暴走すると、それは急に「宗教」を匂わせてしまう。
教師はあくまでも「教育公務員」である。
「全体の奉仕者」であらねばならない。
外的要因の影響を受けつつ、「自分のやりたい教育」とのバランスを維持して、職務にあたっていかなければいけないのだ。
よって、教師も「中動態」としての振る舞いを意識することが肝要となる。
以上、ここまで「『教育』という営みにおける能動-中動-受動関係」を述べてきた。
そして、この構図は、そっくりそのまま「国家-教師」という関係にも当てはまることを確認してきた。
ここまででかなりの字数を割いているため、次の論は次回に持ち越したい。
考えていきたい話題は、
「教師主導の一斉授業-自己学習」について、
「各教科によってなぜやる気が異なるのか」についてである。
次回も、「中動態」を媒介として教育について考えていきたい。
乞うご期待。