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#1615 教師は料理人ではなく、グルメになる

巷には「授業づくりの本」「教材研究の本」が溢れ返っている。

それだけ教師たちにとって、日々の「授業づくり」とは、悩ましいものであり、かつ誇りをもって取り組めるものなのかもしれない。

だからこそ、教師たちは「次の日の授業」のために、教材研究に明け暮れている。

教育書を読み漁り、「授業の名人」を目指している。

まさに、一流の「料理人」を夢見ているのである。

至高の食材、至高の調理道具、そして自分の料理人としての腕をフル活用し、至高の料理を「お客様」である子どもたちに提供しようとしているのだ。

しかし、教師がいくら「料理人」として腕を磨き、「最高級の料理(授業)」を提供しても、子どもたちは「ただ口を開けて持っているだけの存在」となる。

それ以上でもそれ以下でもない。

常に「口を開けて、美味しい料理を待っている存在」となる。

そこから変容しないのである。

たしかに「最高峰の料理人」が提供する「最高級の料理」は美味しい。

そして、栄養も満点だ。

つまり、子どもたちの学習意欲は増すし、学力も身に付く。

しかし、本当にそれでよいのだろうか?

「口を開けて料理を待つだけの存在」のままでいいのだろうか?

そのような子どもたちは、「料理」が美味しくないと納得しないだろう。

「料理」が美味しければ満足するし、不味ければ憤慨する。

そしてそれが続くと、一部の子どもが「クレーム」を言い、学級が荒れ出す。

そのクレームが続けば、「学級」という名のレストランは閉店せざるを得なくなる。

そんな持続可能性のない営みでよいのだろうか?

世の中には「最高峰の料理人」が存在する。

しかし、それは上位層であり、ほんの一握りである。

彼らはたしかにスーパーティーチャーだが、その他の凡庸な教師たちはどうすればよいのだろうか?

「一流の料理人」を目指して、料理の研究をひたすら続ければよいのだろうか?

そこで、必要になるのは教師が「料理人」をやめることである。

え? 何をふざけているのかって?

教師が「料理人」をやめるのである。

代わりに、子どもたちに「料理人」になってもらえばいいのだ。

子どもたちに「料理する立場」を与えるのである。

子どもたち自身が、授業において料理するようにすればよいのだ。

具体的には、子どもたちが学習における「問い」をつくり、自分たちでその問いを解決していくために話し合いをする。

これがまさに「料理」である。

教師が教材研究をし、教師主導で授業を進めるのではない。

子どもたちが教科書を読み、その中から「問い」を見出し、質の高い「問い」を吟味し、話し合っていく。

このように、子どもたちに「料理」を任せるのである。

では、教師は何をすればよいのか?

教師は「グルメ」「美食家」「食通」になればよいのだ。

子どもたちが吟味した「問い」や導いた「答え」に対して「評価」をする。

「美味しい!」「不味い!」という風に。

教師は「お客様」になっていけない。

そうではなく、子どもたちがつくった「料理」に対して、「美味いか不味いか」の評価する。

つまり、教師は「グルメ」になればいいのである。

それにより、子どもたちは「料理が美味ければそれを続ける」だろうし、「料理が不味ければ改善点を考える」だろう。

最初は自分たちの「料理」が美味いか不味いかは判定できない。

そこで「グルメ」である教師が評価してあげることで、その判定が徐々にできるようになっていく。

そうやって、自分たちの手で自分たちの「料理」をつくっていくのだ。

それを支えるのが「グルメ」である教師の存在なのである。



教師は「一流の料理人」を目指している。

だからこそ、私も教育書を今でも読み漁っている。

しかし、一流の料理人になればなるほど、「お客様」である子どもたちは、その料理人に依存していく。

「料理人がいなければ自分で食事ができない」人間になってしまう。

つまり、「自律した学習者」とはほど遠い存在となってしまう。

これを打破するためには、子どもたちに「お客様」から卒業してもらい、「料理人」として立場を変更してもらう必要がある。

自分で料理する経験、友達と協働しながら料理する経験を味わってもらう。

そして、教師が「グルメ」となり、子どもたちがつくった「料理」を評価する。

これを繰り返していくことで、子どもは「自力で美味しい料理をつくる」ことができるようになるのだ。

これがまさに「自律した学習者」としての存在なのである。



さあ、果たして私は「グルメ」という存在になれるのだろうか?!

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