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#1966 学校教育って意味あるの?

橘玲氏の著書『言ってはいけない』を読んだ。

この書籍の中では、「人間=遺伝+共有環境+非共有環境」という事実が紹介されていた。
※共有環境とは「家庭」のことであり、非共有環境とは家庭以外の「友達関係」「学校教育」「地域コミュニティでの活動」などを指す。

「人間の性格や能力の大半は、親からの遺伝による」という話なのだ。

残りの要素は、共有環境と非共有環境で決まるのだが、ほぼ「非共有環境」で決まることが書かれていた。
※例外として、「家庭」という共有環境では、子どもの将来の「味覚」「宗教」「言語特性」に影響を及ぼすことがわかった。

つまり、家庭における「子育て」は、子どもの性格や能力にほとんど影響を与えないのである。

では、遺伝以外の影響を与える「非共有環境」の内実は、どのようなものが多くを占めているのだろうか。

それは、「友達関係」なのである。

友達関係における自分の「キャラ」「立ち位置」が形成されることで、それに応じて性格や能力が決まっていくそうなのである。

しかも、その友達関係においても、「遺伝」による性格が影響するため、付き合う友達も似たようなものとなりやすいのだ。

これを知ったとき、「学校教育の影響はあまり期待できない」と痛感させられた。

こんなにも日々、悪戦苦闘し、子どもたちに真剣に向き合っているのに、「学校教育」が子どもたちの将来にほとんど影響を及ぼさないのなら、教師の存在意義とは何なのだろうか?

この事実を知り、無力感に苛まれてしまったのである。

私が学校教育において、子どもたちにできることは「ほぼない」のだろうか?

本当に、遺伝や友達関係の影響が人間の性格や能力の大半を占めるのか?

「私」という教師が教育しても、「他の第三者の教師」が教育をしても、その差はないのだろうか?

膨大なデータが示すことはやはり、「遺伝と友達関係の影響」が最重要なのである。

では、私たちが教師としてできることは何なのだろうか?

私たち教師が追い求めている「理想の学級経営」や「魅力的な授業づくり」などは、「気休め」にすぎないのだろうか?

それでもなお、子どもたちの未来を信じて、私たちが教師としてできることを模索し続ける意味はあるのだろうか?

「教育」というエンドレスゲームに、どのような態度で挑み続けるべきなのだろうか?

ぜひ、この記事を読んだ方々にコメントをいただきたいと思う。

そして、「学校教育にできること」「教師として子どもたちにできること」を共に考えていきたい。

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