
#1603 文脈依存性の克服?限界?
人間の知識・技能は高度に文脈依存的である。
数学を学ぶと「論理的思考力」が育つと言われる。
しかし、数学を学ぶことによって育つ論理的思考力は、数学の問題を解決するときには活用できるが、その他の問題解決にほぼ役に立たない。
人間の記憶は、なぜ文脈に依存してしまうほど非効率的なのか?
実は、その逆でとても「効率的な記憶システム」なのである。
私たち人間の記憶量は膨大だ。
その膨大な記憶の中から、そのときに必要な知識・技能を検索しようとするとかなり大変になる。
広辞苑から「一つの言葉」を検索することと同じくらい非効率的になってしまう。
「記憶している情報量が多すぎて、今の状況(文脈)にどの知識・技能を使えばいいか分からない」状態になってしまうのだ。
なので人間は、何かを記憶したり、覚えたりするときは、「どのような状況で覚えたか」というインデックスを付けている。
例えば、「算数の時間でこれを学んだ」というインデックスを付けると、算数の問題解決時には、算数というインデックスがついた記憶が活性化される。
しかし、国語や理科の問題解決の際には、算数で学んだ知識・技能は活性化されない。
これがまさに「文脈依存性」なのである。
文脈依存性は一見「非効率的」に見えるが、同じ状況・場面・文脈であれば、すぐにインデックスを使って検索できるのでとても「効率的」なのである。
この「文脈依存性」を教育で乗り越えるためには、それ相応の「実践の積み重ね」「訓練」が必要となる。
「知識の転移」を、全校をあげて研究している学校もある。
しかし、「文脈依存性」はとても強力な原理なので、それを乗り越えるための「実践の積み重ね」と「訓練」そして「時数」が必要となる。
カリキュラムオーバーロードが叫ばれている昨今の教育現場で、文脈依存性を乗り越えるような「知識の転移」を意識的に学習していく「時数」と「余裕」をつくることは難しいと言える。
「知識の転移」は軽々とできるものではないのだ。
しかし、それを諦めてしまうのはもったいない。
知識の文脈依存性は「効率的な記憶システム」だが、他の状況・場面・文脈には通用しない。
それでもなお、時数を確保し、これを乗り越えるための教育を実践(訓練)すれば、特定の教科で得られた学びを別の教科で転移(活用)させることができるようになる。
これは問題解決の質をぐんと高めてくれるだろう。
上智大学の奈須氏の言葉を引用する。
「学びは常に具体的な文脈や状況の中で生じている。人間の学習や知性の発揮は本来的に領域固有、文脈や状況に強く依存する。どのような状況で学ぶかが学び取られた知識の質を大きく左右するのであり、すると授業づくりのポイントは文脈づくりとなる。」
「先々出合う本物の問題状況に可能な限り近づけた文脈で授業をデザインすれば、学ばれた知識も本物となり、現実の問題解決に生きて働く、つまり自在に転移する。これがオーセンティックな学習の原理である。」
奈須氏が提案するように、授業には「オーセンティックな文脈」が必要であることがわかる。
ところが、従来の授業では、「習得した知識がどのような場面でも自在に使えるように」「知識が転移するように」との配慮から、一切の文脈や状況を捨て去り、特定の知識を一般的命題として教えてきた。
しかし、状況的学習論の立場から見れば、この判断は「誤り」であると言える。
習得した知識が「宝の持ち腐れ」に終わってしまうのだ。
そこで必要になるのが「オーセンティックな学習」である。
オーセンティックな学習は、将来その知識を活用する「本物の文脈」で最初から学ぶことにより、知識の転移可能性を向上させる取組なのだ。
しかしオーセンティックな学習は、その文脈の本物性ゆえに、かえって強烈な印象を子どもたちの記憶に残し、知識を当初学んだ文脈に張り付かせてしまうことになる。
これは、オーセンティックな学習が持つ高い効果に伴う「副作用」と言える。
よって、表面的には異なる文脈や、未知の状況にまで転移の及ぶ範囲を拡張するためには、知識を当初学んだ際の文脈から引き剥がし、自在に動き回れるようなものへと質を高める必要がある。
そのためには、オーセンティックな文脈で得た「学び」を契機に、これまでの複数の学習経験を総ざらいで整理し、それぞれの内実を比較しながらその意味を丁寧に確認する授業を実施することが求められる。
そして、「何をどのように学んだか」がわかる明示的な指導を、段階を追って進めることにより、子どもたちはしだいに教科等特有の方法論やその背後にある論理を深く理解していくのだ。
さらに、表面的には異なる複数の学習経験を俯瞰的に眺め、相互に関連付けたり比較したりし、そこに共通性と独自性を見出すことで、統合的な概念的理解へと導く必要がある。
つまり、オーセンティックな学習で得られた多様な学びの意味を自覚化し、その教科等の「見方・考え方」との関係で俯瞰的に学習経験を比較・整理する中で、表面的には異なる学習経験の間に存在する共通性と独自性に気付き、統合的概念化に成功した時、学びは強靭かつ柔軟に機能する「汎用性」を獲得することになる。
このように、「オーセンティックな学習」と「見方・考え方による明示的な指導」を組み合わせることで、知識の「文脈依存性」を乗り越える可能性が上がるのである。
そのためには、上記で述べたように「時数」と「実践の積み重ね」が必要となる。
文脈依存性を乗り越えるための教育を模索し、実践し続けることを大切にしていきたい。
では。
と終わりたいところだが、ここまでの実践にはやはり「無理がある」と言わざるを得ない。
知識の文脈依存性を乗り越えるために、オーセンティックな学習を実践するためには、教師に相当の「専門性」が必要となる。
ただでさえ、日々の業務に埋没している教師に、オーセンティックな学習を志向する専門性を身に付ける余裕はない。
百歩譲って、相当の専門性を有していても、毎回の授業づくりに生かし、オーセンティックな学習を連発させるための教材研究の時間はないのだ。
ましてや、そのようなオーセンティックな学習を開発・実践するための研修は皆無に等しいし、教員養成課程でも学んでいないのである。
全ての教師にこれを強いるのには、「無理がある」のだ。
持続可能性がないのである。
さらに、いくら学校教育でオーセンティックな学習を経験したとしても、所詮「学校で」学んだ内容である。
ここにも「文脈依存性」は強力に働く。
つまり、学校でどんなに「ホンモノに近い学び」をしても、それを大人になってから思い出し、社会的な問題解決場面に活用できるとは限らないのである。
そんな優秀な人間はほんの一握りであるだろう。
したがって、「学校」という特別な場で学んでいる限り、内容がオーセンティックな文脈であったとしても、知識の「文脈依存性」が機能してしまい、それを大人になってから活用できなくなるのだ。
これが「学校」という社会とは明らかに構造の異なる場で学ぶことの弊害である。
学校は「社会の縮図」とよく言われるが、社会とかけ離れすぎている場である。
だとすれば、私たち教師は、「学校教育」で何を子どもたちに授けることができるのだろうか?
やはり、今流行りの「自由進度学習」「自己調整学習」「けテぶれ」などの実践で育む「自己学習力」「自己調整力」「メタ認知」などの非認知能力なのか?
たしかにこのような非認知能力も大切だろう。
しかし、やはり「学校」で学んでいる以上、そこで得られた非認知能力も、学校を離れたとたん忘れ去られてしまう可能性がある。
また、上記のような「個別最適な学び」としての自己学習は、子どもたちの学力を高めてくれる可能性がある。
しかし、そのような学習で得られる学びは「無味乾燥」なものであり、実社会で生きて働くことはない。
オーセンティックな文脈が存在しないからだ。
完全に「テストのため」の知識になってしまうのだ。
「テスト」と言えば、その存在を根本から形成するのが「受験制度」である。
今現在の日本の「受験制度」が変わらない限り、「テスト至上主義」「認知能力重視」の傾向は変わらないだろう。
よって、これからも非認知能力ではなく、テスト学力という名の認知能力が重視されることになる。
そのような社会では、やはり「テストの点数を高くする」ための教育が志向されてしまうのである。
そのテスト学力が将来何の役にも立たないにもかかわらず…。
そこで注目すべき考え方は『学び合い』である。
『学び合い』は学術的データに裏打ちされており、子どもたちのテスト学力を高めることができる。
さらに、子どもたちが「一生涯の仲間」を築き上げることができる。
自分の強みは他者のために生かすことで貢献する。
自分が弱いところは他者の力をうまく借りる。
こうして「学び合う仲間」を築き上げていくのだ。
「仲間の力を借りながら生きていく力」は最強である。
よって、『学び合い』が一番有効であるように思われる。
しかし、私はそれでもモヤモヤする。
そのモヤモヤの原因は、『学び合い』にもデメリットがあると考えるからだ。
つまり私は、どの教育実践をすればよいのか迷走しているのである。
ということで次の記事では、ここまで取り上げてきた「オーセンティックな学習」「個別最適な学びとしての自己学習」『学び合い』のメリットとデメリットを整理していきたい。
次回に続く。