#1582 自律的な学びか他律的な学びか
近年、「自由進度学習」や「自己調整学習」などが流行し、子供たちが自律的に学ぶ実践が重視されている。
子供たちが学ぶべき内容を教師が視覚的に整理し、それを提示する。
そのような「進度表」をもとに、子供たちは「教師から細かく言われなくても」自分たちで学習を進めていく。
このような学びは「自律的な学び」と言うことができる。
しかし、教師が学習内容を視覚的に整理し、子供が自律的に学びやすいように「進度表」を提示しても、そこには無味乾燥な内容しか存在しない。
学校で扱う「教科書」というものは、知識が冷凍保存された「フリーズドライ食品」のようなものである。
以前に過去の記事で書いた通りだ。
#1027 知識はカップヌードル|眼鏡先生 (note.com)
「教科書に書いてある知識」というものは、冷凍保存されている無味乾燥な食品なのである。
それを子供たちに効率よく摂取させても、「旨み」は得られない。
子供たちは自律的に学んでいるかもしれないが、そこには「楽しさ」「やりがい」「面白味」は皆無なのである。
「学び」とは、本来このようなものではないはずだ。
本質的で自然な「学び」とは、「楽しさ」「やりがい」「面白味」が必然的に伴うはずである。
だとしたら、上記のような「自律的な学び」ばかりしていては、子供たちは「学ぶ楽しさ」を忘れていってしまうだろう。
そんな結末にはしたくない。
そこで必要なのが、教師がフリーズドライ食品に「お湯」をかけてあげることである。
失われた「文脈」を取り戻すことである。
教師が特定の知識に「文脈」を付与し、「学ぶ必然性」「学ぶ楽しさ」を復活させるようにする。
つまり、文脈化・事例化・具体化するのである。
そのために「教師」が存在するのだ。
このような実践は、教師が意図的に「文脈」を付与してあげる必要があるので、子供たちの「自律性」は半減する。
いわば、教師による「他律的な学び」となる。
しかし、教師が目の前の子供たちの実態に応じて付与した「文脈」は、「お湯」として無味乾燥なフリーズドライ食品を食べやすくしてくれるだろう。
これにより、学びにおける「楽しさ」「やりがい」「面白味」が復活するのだ。
近年は、「無味乾燥な自律的な学び」の方向に舵を切りすぎている。
それでは、学校に来る意味、友達と学ぶ意味、教師がいる意味がなくなる。
そうではなく、「楽しさを味わえる他律的な学び」も必要なのだ。
自律的な学びと他律的な学びのバランスを考えていくようにしたい。
では。