#1710 「あった」のに、「なかった」ことになる
ドライブをしていると、視界に入ったものがすぐに消えていくことが分かる。
視界に入った「もの」は確かに「もの」として存在しているし、確かに自分の視界の中に入っている。
つまり、「見よう」とすれば、しっかりと「見える」はずである。
しかし、意識して「見よう」としなければ、視界に入ったはずの「もの」がすぐに消えてなくなってしまう。
確かにそこに「あった」のに、「なかった」ことになってしまうのだ。
これを学級経営に当てはめてみる。
1日の学級での生活には、「ほめられるべき行動」「称賛されるべき行動」「価値づけられるべき行動」がたくさん存在する。
これらの行動は、確かにそこに「ある」のだ。
しかし、担任がそれを意識して「見よう」としなければ、その行動は認識されず、「なかった」ことになるのである。
また、1日の生活には、「不適切な行動」「やめさせるべき行動」「よくない行動」もたくさん存在する。
これらの行動も、確かにそこに「ある」のだ。
しかし、担任がそれを見逃せば、その行動は「なかった」ことになる。
そして、「先生が注意しないから続けてよい」というヒドゥンカリキュラムを生んでしまう。
つまり、何事もそこに「ある」「存在する」はずなのだ。
それにもかかわらず、それを意識して「見よう」としないばかりに、「ない」「存在しない」ことになってしまうのだ。
やはり教師は、教室で起きている事象・現象を意識して見る必要がある。
それが次の「指導」「承認」につながり、ヒドゥンカリキュラムの発生を防ぐのである。