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#1897 血のにじむような努力をしているか?

私は地方に住むいっぱしの教員である。

何のとりえも名声もない普通の教員である。

2年間、教育現場を離れ、教職大学院で研修を積んだ。

この2年間の修行のおかげで、少しは「マシな教員」になれた気がする。

しかし、少しの変化はあったものの、まだまだ凡庸な教員のままである。

もっと有名になりたい。

もっと実績を残したい。

もっと世の中に貢献したい。

もっと存在意義を知らしめたい。

なのに、凡庸なままである。

それは、いわば「当たり前」のことだ。

私は、血のにじむような努力をしていないのである。

「命の時間」を削り、ただひたすらに努力をしているわけではないのである。

「その日暮らし」をしているようなものである。

目の前の仕事をただ「問題なく」こなし、なる早で退勤することだけを考えている。

それは、私には妻と2人の子どもという「家族」がいるからだ。

しかし、「家族と過ごす時間を大切にする」ことを言い訳にし、目先の努力を怠っているのである。

これでは、「凡庸なまま」であるのは当然のことなのだ。

教育書を大量に読んだって、「読んで満足」「noteに書いて満足」しているだけである。

・本で学んだことを血肉にするため、繰り返し読み返す。
・自分が教室で発する言葉を文字起こしし、リハーサルする。
・授業準備、教材研究を完璧にし、子どもの反応を予想する。
・学級経営、生徒指導に即興的に対応するため、リハーサルする。
・自分の授業動画を撮り、見返しながら分析する。
・日々の学級経営、授業実践のリフレクションを記録として残す。

このような努力をしていないのである。

「その日暮らし」であり、「惰性」に身を委ねているだけなのである。

つまり、「行き当たりばったり」で「出たとこ勝負」な人生を送っているのだ。

それなのに、傲慢にも「もっと有名になりたい」「もっと実績を残したい」「もっと世の中に貢献したい」「もっと存在意義を知らしめたい」なんて思っているわけだ。

世の中、そんなに甘くはない。

世に名の知れた偉大な人物たちは、絶え間ない、血のにじむような努力を積み重ねているのである。

それも、ただひたすら勉強する「頭っでかち」ではなく、「世のため」「人のため」という「心でっかち」な人物たちなのである。

だからこそ、多くの人に愛され、多くの人に尊敬され、多くの人に憧れの対象として認識されるのである。

私はまだまだ「青二才」である。

「外部」に問題の責任を押し付けるのではなく、全て「自分」の責任であることを認識しなければならない。

「今の自分」を形成しているのは、他ならぬ「自分」だけなのである。

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