【最北住込エッセイ④】旅を続けていくノマドにも、旅を終えていく社会人にもなれない
11月5日、日本一周を終えてから、ちょうど一年が経ったらしい。母親のFBに通知が来たらしく、つい先日、LINEでわざわざ教えてくれた。
まさか去年、日本一周を終えた時には、その一年後、日本最北端の稚内にてゲストハウス勤務をしているなんて、露ほども想像していなかった。
しかも、ちょうど一昨日の11月5日から、色々な縁とタイミングが重なって、自分が主となり、実質管理人として、ゲストハウスモシリパを回すことになった。一介のスタッフとしては、ちょっとあり得ない高待遇である。5月末の時点で宿泊業など全くの未経験だったので、人生ってこんなことがあるのか……と半ば信じられない気持ちを抱きながらも、せっかくの機会なので、11月末まで楽しく働けたらいいなと思っている。
この度のエセオーナー業については、また次回以降に所感を記せたらと思っているので、今回は、この半年に満たない、ゲストハウスでの住み込みスタッフ勤務の中で、ぼくがどんなことを考えていたのかについて、話したいと思う。
前回参照、ぼくは、旅先で人と交流することをあまりしてこなかった。実は今まで、ゲストハウスに泊まったことすらなかった。低価格を求めるなら、専らカプセルホテルやネットカフェを選んでいた。旅は、個人で十分すぎるほど満足していたし、夜など特に一人でゆっくり写真を整理して、文章を書いて、静かに眠りたかったかったのである。
だが、自分が働くなら、旅人と交流できるようなところがいいかもなあと、ぼんやり考えていた。黙々と清掃して、フロントに立って、案内して、時にはトラブル対応して……、と未経験ながらも想像していた宿泊の仕事に、何かプラスアルファの交流があったら楽しそうだなと思った。
ただ、ぼく自身が、まだ旅人だったから、宿泊業のイロハを学ぶより、稚内を起点にして色々な土地を回りたいという気持ちが強かった。
おかげさまでこの半年、宗谷岬やノシャップ岬をはじめとした、有名な稚内市内の観光地はもちろん、南稚内や西浜などの地元民御用達の店や土地、利尻島に3回、礼文島には5回渡り、道北に関しては、西は留萌、東は紋別まで行き、その間にある、豊富・中川・音威子府・美深・名寄・西興部などを一人で満喫した。札幌を起点にしていると、簡単には行けない場所ばかりに行けたのでとても嬉しかった。オーナーになると、こんなに自由には動けないというのを横で見ていて感じたので、これはスタッフならではの特権である。
そうやって、道北辺りの観光に詳しくなっていった結果、どんどんお客さまと会話が弾むようになっていった。
また、ぼくは、漫画ゴールデンカムイが好きだ。札幌で仕事をしていた頃、コロナということもあって道外に出る事が叶わず、代わりに道内の至る所を聖地巡礼をしていた。北海道開拓の村や網走監獄や北鎮記念館はもちろん、小樽の鰊御殿や平取町、江別の外輪船上川丸や根室車石など、かなりコアなところも回りきった。残念なことに、稚内にはきっちりとした聖地はないのだが、モシリパに漫画ゴールデンカムイが置いてある(自分がわがままを言って、ついこの間、全巻揃えてもらった)こともあって、「ゴールデンカムイ的には、道内のどこがおすすめですか?」と、お客さまに聞かれることは時々あった。もちろん、ゴールデンカムイとは関係なしに、道内には相当詳しいという自負があるし(博物館や郷土資料館、美術館や文学館ばかりだが)、その地を知らなくとも土地勘はあるので、お客さまと北海道の話をするのはとても楽しかった。
また、ぼくは日本一周、47都道府県を制覇しているので、会話の中で「どこから来たんですか?」と尋ね、さらに「その県は◯◯に行ったけど、すごく素敵なところですね」と自分の経験談を話せることで、大変盛り上がった。(一度、対島出身の人がいて、その際は流石に「長崎県って大浦天主堂が素敵ですね!」とは言えなかったが。島はちょっと異世界すぎる。もちろん、全く知らない対島の地元あるある話を聞けて面白かったけど)
フロントで立って案内をしても、濃い話にはなりづらい。勤務時間中に、観光案内ついでにダイニングで話すこともあるが、基本、色々と話をするのは、21時に勤務が終わって、ぼくがオフになってからだ。
ぼくもお客さま同様、自分の眠るドミでは飲食ができないから、ダイニングで夕食を食べる。勤務後、ダイニングで酒を飲みながら(時には奢ってもらったり、自分のストックを分け与えたりして)話す時、ぼくの立場は、いちスタッフというよりも、旅人だ。
勤務時と明確に線引きをしているわけじゃないから(時給は出ていないけど)、21時以降もお客さまに細々としたお願いをされることもあったが、このお喋りの時間が得られるなら、特段苦に感じていなかった。(疲れた日はすぐに寝ていたし)
前職が、どんな時でも立場と規律を色濃く感じなければならなかったから、素の自分として、お客さまと対等に向き合えるのは気楽だった。このような自分の柔軟な態度や交流を許してくれているオーナー夫婦には、心底感謝している。
だから、オーナー夫婦や通いのスタッフの誰よりも、今季のモシリパでぼくが一番、たくさんの人と深く話し込んでいた。
元々人と話すのは好きという自覚はあったが、自分がこんなにも不特定多数の人と話すことが好きだとは全く知らなかった。おそらく、お客さま方からぼくは、稚内のゲストハウスに住み込んでいるスタッフの割には、異様に北海道や国内に詳しい旅人、という認識をされていただろう。ここで働き始めた経緯も独特だし、漫画も描くしで、中々面白い人間として映れていたのではないだろうか。
今はもう閑散期だから、そんなに話し込む人もいないが(それはそうとて一昨日も昨日も21時以降お客さまと話していたりする)、この半年間、本当に様々なお客様がいた。少しはエッセイ漫画に描かせていただいたが、もっと描きたい。まだ描くかもしれない。
実はモシリパでは、お客様の情報(出身地や日時、交通手段など)や、召し上がった食事メニューや、今回どういう目的で旅行に来ているかなどをデジタルデータとして、残せる限りを残している。自分の関わりが、未来のモシリパのためになっているのも嬉しいところだ。次、モシリパに働きにきた誰かは、ぼくの残したメモを見る機会があるかもしれない。
こういうデータでは書ききれなかったり、エンタメエッセイ漫画としてはおそらく描いたりしないだろうなという関わりもたくさんあった。
北海道一周も、日本一周も珍しくないし、海外の人も珍しくない。稚内を訪れるのは、そのような旅行玄人だけでなく、「とにかく端に来たかった」と言う、あまり旅行慣れしていなさそう人や賑やかな家族連れ、また、そもそも仕事で稚内に来ているような人もいる。
誰もが珍しくなく、誰もが特別だった。ぼくと話さなかっただけで、もっと面白い動機で旅をしていた人もいただろう。
意味付けをしたのは、ぼくの方だ。
ある日の勤務後、一人のお客さまと、クラフトジンを飲み交わしながら話していた時、「あなたはノマドだね」と、言われたことがあった。
ノマド、というのは、放浪者、というような文脈だったのだと思う。定住地を持たず、各地を転々と回る人間。彼女はよく、沖縄の孤島に行くらしい。沖縄の小さな島では、ぼくのような旅人の住み込みは珍しくなく、旅先でうっかり恋に落ちて定住して、飲食やスナックやバーを開くらしい。北に行く人間と沖縄に行く人間は、彼女曰く「どこかに行きたい」という動機が似ているそうだ。だから、稚内が終わったら、沖縄に行くといいと勧められた。
事実、モシリパに来たお客さまで、自分と同年代で、ノマドのような旅人と話すことがあった。みんな定住地がなく、渡り鳥のように、夏は北、冬は南へと渡っていき、その土地で住み込みして働いていた。持ち前の愛嬌と器用さと、とびきりの度胸があり、「一ヶ所で暮らせないんだよね」とか「各地に会いたい友達がいる」とか「今度は海外に行きたいんだ」と話して、あっという間に稚内を出て行ってしまった。
ぼくは、彼らのようにずっと旅を続けていられるか、と考えると、正直なところ自信がない。今回、住み込みの仕事に適性があることはわかったし、知り合いのいない土地で暮らすこともできた。そういう意味で、ノマドの才能はある。だが、このまま各地を転々とする生活を続けていくことは、あんまり現実味がなかった。金銭的にも先行き不安だし、日々の充足感としても物足りないだろうなあと思う。行きたいところはまだまだあるが、以前地元を離れた時に感じていた強い焦燥感が、現在もうないのも事実だった。
別に、もう「どこかに行きたい」というわけではない。行きたいところに行きたい。
また、同年代で、北海道一周や日本一周をしている、自分と同じような旅行経験をしてきている若い旅人達と話すこともあった。彼らは、バイクやスーパーカブ、ハンターカブに跨って、主には夏にモシリパを訪れた。中には学生もいたし、社会人もいたが、そのほとんどが、長期休みを利用しての旅行だった。
単位習得を終わらせ、講義を休んでまで旅に来ていたり、職場に「この夏休みは北海道を一周するので八月末まで帰りません」と書き置きをしたりと、どうにか日常の中から時間を捻出して、アホで規格外な旅をしている様子だった。
ぼくは最北端から彼らの旅路を見送ったが、確かに自分も学生時代の長期休みに、函館に飛んで船と鈍行で東京まで帰ってくるとか、福岡に飛んで指宿まで行くとかやっていたなあとを思い出した。
また、数年前まで、8時間超過労働に縛られていた時は、先述したように休みのたびに道内を車で回っていた。日帰りで積丹半島をぐるりと一周400キロ走ったり、札幌から新冠のディマシオ美術館まで往復300キロ走ったり、道東に泊まりながら3000キロほど走ったりしていた。
金を貯めて、休みの度に旅行する。職種も関係しているだろうが、事実、同僚で旅行趣味の人は多かった。休みに旅行をして、平日職場で「◯◯行ってきたんですよ」と話す。「また明日から仕事かあ。働きたくないね」も勿論セットで。自分の両親もこのタイプだ。みんな旅を終えて、社会へと帰っていく。
数年前まで、ぼくもそのように生きていたわけだが、現状、仕事を辞めた事実がある。本気で嫌になって辞めたわけではない。ただ、やりたいことがやりかった。明日の仕事や迫るタスク、立場に縛られることなく、気ままに旅がしたかったから、辞めた。
また、そういう生活に戻っていくのかと思うと、正直なところ悩ましい。週のうち、5日の現実を耐え忍んで、土日と長期休暇だけが天国。言ってしまえば、現実逃避をし続ける人生か。生活が辛いほど、旅は楽しくなっていくのだろうか。旅はいつだって楽しいのに。
さらに、きっと、ぼくが辛いのは立場であって、仕事ではない。事実、ゲストハウス勤務で大半の時間が縛られていることに、大したストレスを感じなかった。仕事の立場上、規律を守って、正しい対応を取らなければならないことが、自分との乖離を感じて辛くなるのだろう。
つまり、ぼくは、ノマドのようにずっと旅人でいることもできないし、仕事のたびに旅人をやめて社会に戻ることもできない。
旅人のままで、仕事をしていたいのだなと思った。ぼくという人格の本質に、旅人という状態は極めて近い。ずっと、一人で旅をしていたからだろうか。旅によって得た経験や知識を、他者と緩やかに共有していくことが、お客さまの喜びとなり、利益となり、仕事となっていくことに、活力を感じるのだろう。
ゲストハウスで勤務をしていると、稚内に住む地元の方と話す機会もたくさんあった。観光客は、もちろん稚内の人ではないし、道民ですらないことが多い。もっと、外の人だ。昨今、円安によるオーバーツーリズムが地元の人の生活を脅かす深刻な問題となっている。
自分も各地を観光しながら、所詮、自分は余所者であるし、この美しい景色が日常となっている人間の生活を、少なからずとも娯楽として消費しているという罪悪感みたいなものについてはよく考える。だからこそ、自然を含めた、公共のものは大切にしたいし、観光資源には積極的にお金を落としたい。
また大学で、観光業の講義を取った時に、講師から「観光とは、平和だからこそ成り立っている」と言われたことを思い出す。
地元の人間が必死にその土地で生活をしていて、さらに今の時勢が平和だから、ぼくらは好きに旅をしていられる。
この時代に、どこで、どんな自分でありたいのか。
稚内に訪れる多様な人々と話したからこそ、考え続けることができた。オーナー家族、通いのスタッフ、道北で暮らす地元民、そして、ひとりひとりのお客さまに心から感謝している。
ぼくは、旅を続けていくノマドにも、旅を終えていく社会人にもなれない。
ということを、あまり悲観せずに、良い意味として捉えていきたいなと思う。
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